牧の改革とは? わかりやすく解説

牧の改革

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)

小金牧」の記事における「牧の改革」の解説

享保期は牧の支配体制にとっての一度目の転機である。 初期には、7牧が存在したが、享保の改革に伴い代官小宮山之進により、統廃合が行われ、野田庄内牧廃止鎌ヶ谷の一(壱)本牧は中野牧統合され、現・から船橋白井にかけ、北から高田台牧上野牧中野牧下野牧、やや東の印西牧の五牧となった。『日本伝説叢書』は、上野中野下野小金称え別に印西牧があった、とし、高田台牧がないため、高田台牧享保以降上野牧から分かれた事が示唆される上野中野下野の名称と、『郷土史蹟新風土記』に、上中下(カミナカシモ)の三牧とある事も矛盾しない中野牧に示す享保期の資料一本椚牧があり、一本椚牧そのものか、少なくとも地名残存を示す。牧の範囲享保以前広範囲に及ぶやや曖昧なもので、場所の変遷もある。 中野下野牧綿貫氏支配離れ小宮山支配下入り、現松戸市陣屋前に設置され金ヶ作陣屋管轄となった小宮山配下の不正の責任負って1732(享保17)年に牧支配の任を解かれ金ヶ作陣屋廃止命じられたものの、陣屋後任代官引き継がれ利用された。小金牧の他の牧と、佐倉牧佐倉藩以外の牧を綿貫氏野馬奉行)が管轄し小金御厨とも称した小金宿奉行宅で事務扱った小宮山は牧内の新田開発検地行った。これら新田林畑だったが、このときの林畑開発は、のちに当該地域江戸東京へ向けた薪炭供給地となっていく契機として評価されている。 『徳川実紀』に、吉宗が「舶に託しペルシャの馬をめしよせられ」、農商務省農務局『輸入種牛系統取調書』(以下、取調書)に吉宗享保年間洋種28頭を購入房総の緒牧と産馬の地に配布した記述がある。上野牧の節に、この時のに関すると見られる伝承を記す。 1719享保4)年6月11日陸奥の國白川の地より牝馬二十疋をめさる。これやがて下總國小金の牧をひらかるるためとぞ」と徳川実紀にある。 1722(享保7)年8月9日代官小宮山埜之進昌世に命ぜられしは佐倉小金等の牧地新田などのこと聞えあげしことく心にまかせ慮置すべし 野牧道途修理なども牧士の長綿貫右衛門指揮してはからふべしとなり」と『徳川実紀』にある。まだ、野馬奉行とは記されていない。『東葛飾郡誌』収録三橋彌記事によれば、牧を南北分け、南の中野下野江戸から出張する代官執務し上野高田印西牧士預りとした。同時に牧士頭の名目廃し野馬奉行改めたとある(ただし実際野馬奉行任命時期は1731(享保16)年と考えられている。野馬奉行参照)。牧士南北2部分け各部に目附牧士2名を置くに至った牧士8人の内、目附牧士2人勢子2人勢子頭は目附牧士次ぎ給金は目附牧士8両他は5両とある。以前は馬が支給された。牧士の下に、牧士見習捕手馬医名主等が当てられ村役人勢子人足がいた。 1724享保9)年8月、馬が野になじまない時の陣屋での飼育とその後野馬としての放牧記述がある。 1725(享保10)年3月吉宗第1回鹿狩行った以降鹿狩詳細について小金原御鹿狩および中野牧の節参照。 1725(享保11)年3月吉宗第2回鹿狩行った。 1726(享保11)年11月綿貫右衛門預かれる牧馬の地」での防堤(野馬土手)の構築維持、馬が死んだ場合等のから牧士への届出について令した記録があり、牧についても改革進められた事を示す。水田のない畑作新田含め新田開発行われ、牧に新田近接する結果となり、新たに野馬土手が築かれた。牧内でも開発が行われ、新田入り組んだ所も多い。この時築かれた物を新土手新堀新木戸等と呼ぶ。谷津舌状突き出した台地の先を、土手築いて仕切り、先を新田とした所が多く見られる。 1726(享保11)年の鹿狩の後、将軍の馬が牧に放たれた事、後に馬の体から胆石出た事、胆石明治天皇見た事を白井市紹介している。 1729享保14年の頃伊豆大島から来た4人の男を松下伊賀守が小金の牧に連れて行き馬を捕獲させたとの話が『古事類苑』『南部馬史』にある。 寛政期は牧支配第二転機である。 1794(寛政5)年、牧は小納戸頭取岩本正倫(石見守)の支配となる。享保以来代官管轄であった中野下野牧は、岩本支配下となり、金ヶ作陣屋小納戸配下である雉子橋野馬方役所出先機関として引き継がれた。関東郡代布佐陣屋成立するまで、幕府直営牧の支配代々小納戸頭取引き継がれた。綿貫預かり小金三牧と佐倉四牧佐倉藩預かり佐倉四牧支配そのままだが、入用については岩本一括管理した。岩本は牧経営経費削減や、牧内の植林樹木売却など、経済的改正行った寛政期の牧改革では、幕府自ら御林薪炭林化に着手したことに特徴がある。 享保から命名まで間があり、後述の『下総国旧事考』(以下、旧事考)等で名称の混乱見られる同年2月19日御納戸頭取岩本石見守殿掛りにて御改、上野中野下野高田、臺、中澤印西白子、鎌ヶ井、流水日暮金ヶ澤、千飼、藤ヶ谷小山柴崎、馬柏井岩井長澤栗山中根、と前掲南部馬史』にある。順に、上野下野は牧の名称である。高田台は牧の名称、鎌ヶ谷市中沢中野牧捕込隣接印西は牧の名称である。白子中野牧捕込鎌ヶ谷下野牧捕込所在地流水不明である。松戸市日暮御囲、北に隣接した金ヶ作に陣屋があった。流山市千ヶ井に隣接し上野牧捕込の大込があった。中野牧〆切御囲の東に藤ヶ谷があるが、中野牧とは大津川隔てられている。小山不明である。柏市柴崎の西に高田台牧捕込があった。中野牧の東の区画接し高柳はあるが、馬不明である。千葉市柏井の西に下野牧区画があった。岩井不明である。上野牧の北の区画接し流山市深井長沢がある。栗山不明である。印西牧の西に、白井市中と根がある。 1795(寛政7)年、家斉鹿狩行った。 馬は牧別に焼印定められ管理された。焼印綿貫家文書と、『旧事考』でそれぞれ高田台牧琴柱上野牧が笠、中野牧千鳥中野御囲木瓜下野牧神保入御囲が輪違印西牧瓢箪大青田牧が千斤、上野牧が笠、中野牧飛鳥、(中野御囲なし)、下野牧神保入なし)が重環、印西牧が瓢とある。 琴柱と千斤、千鳥飛鳥輪違と重環はほぼ同じ図案である。『旧事考』に、上野中野・中御囲下野印西で五牧とするとある。 牧は庶民にも知られ絵画紀行文記録が残る。歌川広重の『冨士三十六景・下総小金原』は山梨県立美術館では松戸風景としており、記述正しいなら中野牧相当する歌川国芳川柳絵『小金原チヨロチヨロとむる馬ツころ』は中野牧可能性比較的高い。松尾芭蕉による記録渡辺崋山絵画については中野牧小林一茶の句については高田台牧に記す。 天正期まで小金は「金」と記す事が多く金原亭馬生の名の元にもなった。 馬の捕獲庶民娯楽となり、見物人目当て茶店そば屋飴屋団子屋甘酒屋等が出るほど賑った。 古くは、小野忠明典膳)と善鬼の、小金原決闘があったとの話もあるが、場所が違うとする話もある。 1802(享和2)年の捕馬に該当する記述が、『近世四大家文鈔』の佐藤一斉『題小金原捉馬図巻』にある。文中壬戌がこの時の捕馬である事を示す。 1836(天保6)年『小金御馬野放』の文書が残る。 1848(弘化5)年『下総国旧事考』が出版された。 1849(嘉永2)年家慶鹿狩行った1868慶応4)年大政奉還明治改元されたが、『東京官員録』「野馬方」の「野馬頭」に綿貫夏右ヱ門の名があり、夏右ヱ門の襲名と、引続き牧の運営管理がされていた事が判る

※この「牧の改革」の解説は、「小金牧」の解説の一部です。
「牧の改革」を含む「小金牧」の記事については、「小金牧」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「牧の改革」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「牧の改革」の関連用語

1
0% |||||

牧の改革のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



牧の改革のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの小金牧 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS