牧の改革
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享保期は牧の支配体制にとっての一度目の転機である。 初期には、7牧が存在したが、享保の改革に伴い、代官小宮山杢之進により、統廃合が行われ、野田の庄内牧は廃止、鎌ヶ谷の一(壱)本椚牧は中野牧に統合され、現・柏から船橋・白井にかけ、北から、高田台牧、上野牧・中野牧・下野牧、やや東の印西牧の五牧となった。『日本伝説叢書』は、上野・中野・下野を小金と称え、別に印西牧があった、とし、高田台牧がないため、高田台牧は享保期以降、上野牧から分かれた事が示唆される。上野・中野・下野の名称と、『郷土の史蹟:新風土記』に、上中下(カミナカシモ)の三牧とある事も矛盾しない。中野牧に示す享保期の資料に一本椚牧があり、一本椚牧そのものか、少なくとも地名の残存を示す。牧の範囲は享保以前は広範囲に及ぶやや曖昧なもので、場所の変遷もある。 中野・下野牧は綿貫氏の支配を離れ、小宮山の支配下に入り、現松戸市陣屋前に設置された金ヶ作陣屋の管轄となった。小宮山は配下の不正の責任を負って1732(享保17)年に牧支配の任を解かれ、金ヶ作陣屋も廃止を命じられたものの、陣屋は後任の代官に引き継がれて利用された。小金牧の他の牧と、佐倉牧の佐倉藩預以外の牧を綿貫氏(野馬奉行)が管轄し、小金御厨とも称した小金宿の奉行宅で事務を扱った。 小宮山は牧内の新田開発・検地を行った。これら新田は林畑だったが、このときの林畑開発は、のちに当該地域が江戸・東京へ向けた薪炭供給地となっていく契機として評価されている。 『徳川実紀』に、吉宗が「蘭舶に託しペルシャの馬をめしよせられ」、農商務省農務局『輸入種牛馬系統取調書』(以下、取調書)に吉宗が享保年間、洋種馬28頭を購入、房総の緒牧と産馬の地に配布した記述がある。上野牧の節に、この時の馬に関すると見られる伝承を記す。 1719(享保4)年6月11日「陸奥の國白川の地より牝馬二十疋をめさる。これやがて下總國小金の牧をひらかるるためとぞ」と徳川実紀にある。 1722(享保7)年8月9日「代官小宮山埜之進昌世に命ぜられしは佐倉小金等の牧地新田林などのこと聞えあげしことく心にまかせ慮置すべし 野牧の道途修理なども牧士の長綿貫夏右衛門に指揮してはからふべしとなり」と『徳川実紀』にある。まだ、野馬奉行とは記されていない。『東葛飾郡誌』収録の三橋彌の記事によれば、牧を南北に分け、南の中野・下野は江戸から出張する代官が執務し、上野・高田・印西を牧士頭預りとした。同時に牧士頭の名目を廃し野馬奉行と改めたとある(ただし実際の野馬奉行の任命の時期は1731(享保16)年と考えられている。野馬奉行も参照)。牧士も南北の2部に分け、各部に目附牧士2名を置くに至った。牧士8人の内、目附牧士2人、勢子頭2人、勢子頭は目附牧士に次ぎ、給金は目附牧士8両他は5両とある。以前は馬が支給された。牧士の下に、牧士見習、捕手、馬医、名主等が当てられた村役人、勢子人足がいた。 1724(享保9)年8月、馬が野になじまない時の陣屋での飼育とその後の野馬としての放牧の記述がある。 1725(享保10)年3月、吉宗が第1回の鹿狩を行った。以降の鹿狩の詳細については小金原御鹿狩および中野牧の節参照。 1725(享保11)年3月、吉宗が第2回の鹿狩を行った。 1726(享保11)年11月「綿貫夏右衛門預かれる牧馬の地」での防堤(野馬土手)の構築と維持、馬が死んだ場合等の村から牧士への届出について令した記録があり、牧についても改革が進められた事を示す。水田のない畑作新田も含め新田開発も行われ、牧に新田が近接する結果となり、新たに野馬土手が築かれた。牧内でも開発が行われ、新田と入り組んだ所も多い。この時築かれた物を新土手、新堀、新木戸等と呼ぶ。谷津へ舌状に突き出した台地の先を、土手を築いて仕切り、先を新田とした所が多く見られる。 1726(享保11)年の鹿狩の後、将軍の馬が牧に放たれた事、後に馬の体から胆石が出た事、胆石を明治天皇が見た事を白井市が紹介している。 1729(享保14)年の頃、伊豆大島から来た4人の男を松下伊賀守が小金の牧に連れて行き馬を捕獲させたとの話が『古事類苑』『南部馬史』にある。 寛政期は牧支配の第二の転機である。 1794(寛政5)年、牧は小納戸頭取岩本正倫(石見守)の支配となる。享保期以来代官の管轄であった中野・下野牧は、岩本の支配下となり、金ヶ作陣屋は小納戸配下である雉子橋の野馬方役所の出先機関として引き継がれた。関東郡代の布佐陣屋が成立するまで、幕府直営牧の支配は代々の小納戸頭取に引き継がれた。綿貫預かりの小金三牧と佐倉四牧、佐倉藩預かりの佐倉四牧の支配はそのままだが、入用については岩本が一括管理した。岩本は牧経営の経費削減や、牧内の植林と樹木の売却など、経済的改正を行った。寛政期の牧改革では、幕府自ら御林の薪炭林化に着手したことに特徴がある。 享保から命名まで間があり、後述の『下総国旧事考』(以下、旧事考)等で名称の混乱が見られる。 同年2月19日、御納戸頭取岩本石見守殿掛りにて御改、上野、中野、下野、高田、臺、中澤、印西、白子、鎌ヶ井、流水、日暮、金ヶ澤、千飼、藤ヶ谷、小山、柴崎、馬柳、柏井、岩井、長澤、栗山、中根、と前掲『南部馬史』にある。順に、上野〜下野は牧の名称である。高田台は牧の名称、鎌ヶ谷市中沢は中野牧捕込に隣接、印西は牧の名称である。白子は中野牧捕込、鎌ヶ谷は下野牧捕込の所在地、流水は不明である。松戸市日暮に御囲、北に隣接した金ヶ作に陣屋があった。流山市千ヶ井に隣接し上野牧の捕込の大込があった。中野牧〆切御囲の東に藤ヶ谷があるが、中野牧とは大津川で隔てられている。小山は不明である。柏市柴崎の西に高田台牧の捕込があった。中野牧の東の区画に接し、高柳はあるが、馬柳は不明である。千葉市柏井の西に下野牧の区画があった。岩井は不明である。上野牧の北の区画に接し流山市深井長沢がある。栗山は不明である。印西牧の西に、白井市中と根がある。 1795(寛政7)年、家斉が鹿狩を行った。 馬は牧別に焼印が定められ管理された。焼印は綿貫家文書と、『旧事考』でそれぞれ、 高田台牧が琴柱、上野牧が笠、中野牧が千鳥、中野御囲が木瓜、下野牧と神保入御囲が輪違、印西牧が瓢箪、 大青田牧が千斤、上野牧が笠、中野牧が飛鳥、(中野御囲なし)、下野牧(神保入なし)が重環、印西牧が瓢とある。 琴柱と千斤、千鳥と飛鳥、輪違と重環はほぼ同じ図案である。『旧事考』に、上野・中野・中野御囲・下野・印西で五牧とするとある。 牧は庶民にも知られ絵画や紀行文に記録が残る。歌川広重の『冨士三十六景・下総小金原』は山梨県立美術館では松戸の風景としており、記述が正しいなら中野牧が相当する。歌川国芳の川柳絵『小金原チヨロチヨロとむる馬ツころ』は中野牧の可能性が比較的高い。松尾芭蕉による記録、渡辺崋山の絵画については中野牧、小林一茶の句については高田台牧に記す。 天正期まで小金は「金」と記す事が多く金原亭馬生の名の元にもなった。 馬の捕獲は庶民の娯楽となり、見物人目当ての茶店、そば屋・飴屋・団子屋・甘酒屋等が出るほど賑った。 古くは、小野忠明(典膳)と善鬼の、小金原の決闘があったとの話もあるが、場所が違うとする話もある。 1802(享和2)年の捕馬に該当する記述が、『近世四大家文鈔』の佐藤一斉『題小金原捉馬図巻』にある。文中の壬戌がこの時の捕馬である事を示す。 1836(天保6)年『小金江御馬野放』の文書が残る。 1848(弘化5)年『下総国旧事考』が出版された。 1849(嘉永2)年家慶が鹿狩を行った。 1868(慶応4)年大政奉還、明治と改元されたが、『東京官員録』「野馬方」の「野馬頭」に綿貫夏右ヱ門の名があり、夏右ヱ門の襲名と、引続き牧の運営管理がされていた事が判る。
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