庄内牧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 05:57 UTC 版)
庄内牧(しょうないまき)は現野田市にあった牧である。名称は庄内領だった事に因み、野田市役所では荘内牧と表記している。享保期に廃止されたため、小金「五」牧には数えない。野田付近で北総台地が低く、他の牧より農業用水を得やすかったと考えられる。 1640(寛永17)年の江戸川開削前には地続きだった埼玉県側にも、馬場等の字が残る。野田市立図書館では延喜式の長洲牧があったとする説を紹介し、また、初期に中央部が新田となり、南北に分かれ、北部が上野、南部が下野であったとしている。相馬御厨の中心に近い方が上、遠い方が下で、江戸からの距離とは逆である。『七福村誌』には、旧記によると谷津・吉春・岩名は往古小金野の野方に隷していたとある。『元禄国絵図・下総国』(以下『元禄国絵図』)にそれぞれ村として記されており、牧ではなく、野付村であった事を示す。 1665(寛文5)年、野田市立図書館蔵『寛文5年野田町絵図』(以下、野田町絵図)に後述する野馬土手がある。南部の牧の北縁に当たる土手があるが、土手の北側の中央部も南部の牧と同じ「原」と記され、まだ、牧として認識されていたか、少なくとも開墾があまり進んでいなかった事を示す。中央部には西の谷津へ舌状に突出した2箇所の台地が共に土手で仕切られ、先に畠と記されており、中央部も牧の時の状態を示している。 1673〜81(延宝元〜9)年までには、七ヶ新田、すなわち、中野・宮崎・堤根・花野・柳沢・座生・鶴島を村分けしたと野田町にあるが、これだけでは、牧以外の開墾や単なる分村の可能性も否定できない。 1693(元禄6)年頃から開墾されたとの伝承記録が『旭村誌』にある。旭村は南北の牧の間に当たり、記述は、この頃まで中央部も牧か未開墾の牧跡であった事を示す。 1696〜1702(元禄9〜15)年作成の『元禄国絵図』に、南北の牧の間に、北から柳澤・奉目・鶴嶋・花井・中根・堤根の各新田と宮崎新田村があり、牧が南北に分かれていた事を示す。 1716(享保1)年、蕃昌新田の開墾が始まり、4年後に終ったと『七福村誌』にある。 1721(享保6)年か翌々年に廃止されたため、牧としての正式な遺構はその前のものであるが、廃止後も野馬が残り、田畑を荒らしたため、野馬土手が補修・構築された。存続した他の牧への馬の収容を行った岩本石見守への謝恩碑が野田市内にある。他の牧の古土手に当たる、牧の廃止後、300年を経て、今日残る土手もある。
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