牧の構造 野馬土手
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 05:57 UTC 版)
小金牧を構成した牧は、時期によっても異なるが、それぞれ10〜100平方キロメートルの面積をもち、牧の内外には野馬土手と呼ぶ土手が築かれた。場所により、馬土手、ぬま土手等とも呼ぶ。野馬土手には、構築目的と形状から、野馬除土手、勢子土手、囲土手等の種類があった。土手の名称等は『柏市史』『東葛飾郡誌』『旧事考』による。 野馬除土手は馬が逃げ田畑を荒らし集落への侵入を防ぐための、牧の周囲と集落の周辺の土手で、通常、二重のため、間は堀状で、野馬堀とも呼ばれた。土手が低く特に堀が目立つ場合は単に野馬堀という事が多い。印西牧および佐倉牧全体で、堀と称した事が多い。土手は堀の土と周囲から集めた土を用い、通常、牧内側の土手「小土手」は馬の怪我を防ぐために低くなだらかで馬の勢いを殺ぎ、牧外側の土手「大土手」は馬の逃走を防ぐために高く急斜面である。傾斜と高さの違いにより、馬が堀に入っても牧内側に戻る。場所により三、四重の土手もあった。牧は主に台地上にあったため、谷津との境では、台地の縁近くに堀を掘り、堀が目立つ所もあったが、堀を作れば、土が出るので、普通、あわせて土手も築かれた。谷津との境の土手は台地の縁、斜面の上に築かれた事が多いが、斜面の途中や下に築かれた土手もある。土手そのものが低く、木や竹の柵が併設された所もある。『東葛飾郡誌』によると、周囲の土手は75967間1尺、約140キロメートルであった。かつての四十里野の名称による160キロメートルとの説も大きな間違いではない。四十里野の名については、那須まで40里続く、房総中央に40里続く等様々な伝承がある。初期には集落を牧から分けるように作られた古土手が、享保以降の新田開発と牧の縮小の結果、新田と本村との境界の明示、縮小された牧から逃げた馬の集落への侵入防止に役立ったため、牧の外側に残された場合も多く、今も残る土手もある。 勢子土手は牧の中にあるため、中土手とも言い、牧内の馬の集約捕獲時の誘導路と牧を仕切る区画を形作った。その性格上、分岐や食い違い構造をもつ、やや複雑な形状の土手も多い。馬を集める際の労力軽減、効率化のため、牧は勢子土手によって区画に仕切られ、捕獲時には、一区画の馬を集めて次の区画へ移し、あわせた馬をさらに次の区画へ移す事を繰り返し、最終的に牧の馬をすべて集めた。牧を仕切るため仕切土手と呼ばれた土手もある。野馬除土手、勢子土手ともに水飲み場への馬の誘導を兼ねた土手もある。 囲土手(かこいどてcorral)は牧の一部を囲む土手で、野馬除土手とともに、牧の一部を区切っていた。囲土手には、勢子土手の一種と言えるが、次に記す捕込に接し、馬を集め捕馬を効率的に行うための土手があり、内部を大込等と呼んだ。幕府騎乗用等の良馬を集め飼育する御囲(おかこい)を構成する囲土手もあり、中野牧・下野牧には各2箇所、御囲があった。野馬土手は、20世紀末の時点で、かつての一割程度が残ると言われるが、他の構築物との誤認や途中の変遷もあり、正確な位置が不明の場合もある。 捕込(とっこめ・とりこめ)は、取込・鳥込の表記もある牧内で集めた馬を最後に捕まえる土手で囲まれた区画である。『古事類苑』収録の『甲斐叢記二』には、「とりこめ」とふりがなのある馬城が牧の別名とされた旨の記述がある。捕込は馬の捕獲、捕獲後の水の補給、移動が楽な、各牧の端で街道と谷津頭の近く、中野牧以外では、江戸側にあった。捕込は約200 メートル四方、中は通常3区画からなるほぼ四角形の土手、3区画とは捕えた馬を入れる狭義の捕込、使用する馬を入れる留込または分込、再放牧する馬を入れる払込である。捕込も囲土手の一種と言えるが、ここでは区別する。一部の軍馬に適した馬以外は農耕馬等として払下げられ、牧内の草銭場での薪拾い代等と共に幕府の収入となった。 土手には幕府の命で築かれた御普請土手と住民が自主的に築いた自普請土手があり、後者には公文書にないものもある。御普請土手を築く際には、農民に手当ての米が支給されたが、その後の維持管理の責任も負わされた。勢子土手はすべて御普請土手である。初期には各牧の境界は明確でなく、馬の侵入防止に集落近くに築かれた短い土手も多い。神社や屋敷の土塁が野馬除土手を兼ねていた場合には、野馬土手と認めるかどうかで意見が分かれる。特に害獣避けとして築かれた猪垣について、混同への注意喚起もなされている。下総は『続日本紀文武紀』に大風が吹き農民の家が壊れたとあり、上野牧跡の南柏駅初代駅舎には風除けがかつてあり、今も庄内牧跡の間の野田市街に突風注意の看板があるほど風が強く、明治以降も畑の風除けに役だった野馬土手がある一方、風除けや塀もかねた土塁もある。 谷津は牧に適さず、水田に適したため、牧と谷津の「隙間」に農村集落が形成され、馬の追込・鷹狩・鹿狩の勢子・人足の供出、土手の補修を行い、野付村と呼ばれた。鹿狩への動員時には村名と人数等を記した幟を掲げた。集落付近には牧の馬と多くはその子孫に当る馬の供養のための馬頭観音の石碑が今でも各所に見られる。明治期の馬頭観音も牧跡の外に多い。牧内には道も通っていたため、馬の脱出を防ぐため、出入口部分の土手の切れ目・道の乗越え部分には木戸が設けられた。街道の場合は木戸番がおり、原則として日中のみ通行でき、関所でもあった木戸もあったが、他地域にも設けられた木戸と違い、本来、人ではなく馬に対する木戸である。牧と牧を結ぶ道に設けられた木戸には、中木戸と呼ばれた場合があり後述する。 以下、各牧について、庄内牧を除き、原則として牧の範囲は享保以降のものを示す。一本椚牧は中野牧に含め、上野牧は初期には高田台牧と一つだったため、高田台牧より上野牧を先に記す以外、北から順に記し、印西牧を最後に記す。 佐原の清宮秀堅著、正文堂発行の『旧事考』には若干の公文書との相違が見られ、牧の異字(土偏に同、簡体字では土偏と同の下に云、東葛飾郡誌のみ土偏に回)を用いているが、古文書には字の違いはよくあり、俗称等についての記述は詳細である。 牧士については、文化財指定の墓と子孫非居住の住居を記す。残存する遺構の見学等については私有地の場合もあり、注意が必要である。土手の位置・地名は明治13〜14年陸軍迅速測図、国土地理院の地形図と空中写真、国土交通省、千葉県教育委員会(以下、県教委)ほか、各自治体等の資料と現地調査、土手の形状は迅速測図欄外の図と現地調査、『東葛飾郡誌』による。字(あざ)については、新旧を区別しない。
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