一本椚牧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)
一本椚牧は中野牧の南の部分で、ほぼ初富と初富の土手が延びていた白井市の隣接する部分と考えられる。『享保小金原御場絵図』や『鎌ヶ谷市計画書』掲載の享保期の図に一本椚牧、壱本椚牧、中野一本椚野馬押込場があり、少なくとも地名としては享保期に残っていた事を示す。中野牧の捕込も元々は一本椚牧の捕込だった可能性があり、少なくとも中野牧と一本椚牧共通の捕込としての認識を示す。西側に前述の初富小学校西の勢子土手と、さらに西に粟野に続く谷津があり、どちらかが一本椚牧の西縁だったと考えられる。『旧事考』付図や『江戸近郊図』に、鎌ヶ谷大仏の北東、粟野付近に一本椚の地名があり、一本椚牧は今の三本椚近くの旧一本椚村と関連する名称と考えられる。 『旧事考』付図には近くに瓢箪サクの地名と池の図があり、白井市冨士のすぐ北、鎌ヶ谷市瓢箪付近と考えられる。佐津間の瓢箪池は『田中村誌』に手賀沼の水源の一つとある。鎌ヶ谷村道路元標は延命寺前付近に当る字一本椚に置かれ、一本椚のつく公園が鎌ヶ谷五〜七丁目にあり、中野・下野牧間を通る木下街道の東に一本椚と記した昭和期の地形図もあるが、付近は鎌ヶ谷大仏が置かれた事でも判るように牧外で、厳密には、北東の一本椚村によって開かれた一本椚新田と考えられる。競馬学校は一本椚牧の北東端に当たる。北に中木戸、木戸前、東に白井木戸(新田)の字がある。 土手は、鎌ヶ谷市市制記念公園東から、折れ曲がりながら、鎌ケ谷市立初富小学校西、稲荷前三差路へ続き、さらに、水飲み場だった鎌ヶ谷大仏北の池へ続いていた。小学校西に土手が良好な状態で残り、前述の史跡に指定された。三差路近くの土手は今世紀初めまで残っていたが、道路が拡張され四差路となった時に失われ、跡は歩道のベンチと植込みになった。少し南では土手が残る。池は『享保小金原御場絵図』の丸山溜に当たる。小学校北東の南西への分岐の一部が、白井市冨士に残る。 中野牧・下野牧の牧士は両牧を担当していた事など、鎌ヶ谷市に、下総小金中野牧跡、北初富の開墾五十周年記念碑、下総牧開墾局知事北島秀朝等旅宿看板、五郎兵衛から彌までの牧士三橋家の墓地、魚文の句碑、官軍兵士の墓、鎌ヶ谷大仏、牧士清田家の三代勝定が将軍から下賜された悍馬が帰途暴れたため切り殺した事に因む駒方大明神、牧士清田家の墓地の解説と写真が、白井市に牧士、冨士の野馬除土手の解説、松戸市立博物館、鎌ヶ谷市郷土資料館に牧に関する展示がある。 『牧跡』の地図は参考としない。
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