捕込
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捕込跡地は当初「捕込学校」とも呼ばれた柏二小で、1985年まで捕込の形を模したという池があった。裏手に捕込に続いていた大込の土手が約30メートル残り、柏二小のホームページにも記述がある。1972年頃までは屈曲しさらに東に延び、特に捕込に近い所は今より急峻だった。捕込の北半分は明治45年頃までほぼ完全に残っていた。日光街道まで延びていた捕込内の土手は1965年を最後に失われた。捕込には街道側に2箇所、南に1箇所の開口部があったが、街道側北の開口部の位置に同小学校の正門がある。開口部を1箇所とした資料の場合も正門と位置は一致する。『見取絵図』には一之牧取込土手と記され、二つの区画、2箇所の街道側の開口部、捕込土手上の数本の松と見られる木、街道向い側で街道に少し突出した土手がある。 『幸谷観音野馬捕りの献額』は、綿貫家の寄贈で、上野牧の捕馬とされ、松の大木の下の幔幕に九曜紋がある事もこれを裏付ける。馬の捕獲のほか、多数の見物人、複数の出店・屋台等が描かれている。図を拡大して見ると、消えかけた土手が描かれ、見物人は土手上に座り、土手に3箇所の開口部がある事、幔幕のある御照覧場(検分所)も土手上にある事が判る。高田台牧の節に記す柏市立西原小学校の図では、土手が復元して描かれ、指導者の技量の高さを示す。 捕込跡柏二小の斜向かい、四号稲荷神社境内に、岩倉具定が地元に土地を売却した事に対する岩倉公爵報恩碑、開拓百周年の碑がある。前者は『千葉県内碑石一覧』には「岩倉報恩碑」とある大正3年5月建立とする碑と一致する。近くに、岩倉具定の屋敷があったとされ、西、現凸版印刷の敷地には、昭和初期まで土塁に囲まれた土地があった。 大込の土手は、稲荷神社の西の谷津から、反時計回りに、柏市の西への突出部を横切り、一部残存する土手の所から稲荷神社の約300メートル南で日光街道を横切り捕込東まで続いていた。土手が日光街道を横切った字捕込(とりこめ)に以前「鳥込」バス停があり、上野牧での「とりごめ」の発音を示す。『見取絵図』に街道と直交する土手に「大込土手」とあり、捕込の周囲の大込の土手であった事を示す。捕込は字捕込ではなく、字八丈にあたる。 大込の西は、流山市松ヶ丘千ヶ井で『南部馬史』の千飼に当たる。千飼は大込の区画と御囲の両方を意味する。詳細は青木の著作参照。土手が道を横切る所には捕馬の際の臨時のものを含め、木戸があったとしている。 捕込北、日光街道沿い字一本松に、江戸時代からあった一本松の下に明治期に建てられたという一本松稲荷がある。捕込の松とともに、水戸街道同様、道標の役割と、中野牧での鹿狩を描いた『享保乙巳小金中野牧御鹿狩之図』に示された「見通松」と同様、捕馬の際、遠くから見通すことができた。 前述、一号稲荷神社は『開拓記念碑』、『木釘記念碑』とも現存、豊四季冨士見の永寿稲荷神社と判る。 『旧事考』の高田台の捕込については高田台牧で述べる。
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捕込
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迅速測図では、十余二の西、柏・流山市境に、古込の捕込跡がある。(安田1958)掲載の平面図によると、広義の捕込はほぼ正方形で、東半分が長方形の狭義の捕込、西半分のさらに北半分が溜込、南半分が分込である。つくばエクスプレス(以下、TX)際の墓地に当る。捕込内部の区画は1949年の空中写真で明瞭に、1961年でもある程度認められる一方、すでに1928年測図の地形図で、捕込の土手内に墓地の記号があり、捕込内部の土手が残る状態で墓地になったことを示す。したがって、墓の移動がなければ、墓地内の区画割がかつての捕込内の土手の位置を反映している。墓地の南東の一部はTX建設に伴う道路工事によって削られた。旧高田村北の台地は高田台であり、上野牧からは谷津を隔てた回り道になるが、直線距離では近く、『旧事考』の上野牧の捕込があるという高田台に地名は一致する。千葉県立中央博物館の白井豊は高田の字古込後を示している。 『旧事考』にある「大青田牧」は、新込が大青田近くにあった事を示す。大青田はすでに新田であったため、大青田に隣接した十余二伊勢原辺りが該当する。明治期には、十余二南部は高田原と呼ばれていた。この捕込は、『鎌ヶ谷市計画書』収録の寛政期の地図にある2つの捕込のうちの北の捕込と一致する。大青田の北西に馬場の字があり、『牧跡』掲載の『小金上野高田台両御牧大凡図』には、十余二伊勢原から十余二西を経て、みどり台となった辺りに高田台新込とあるため、新しいが痕跡が残らなかった捕込に当たる。『小金上野高田台両御牧大凡図』と『鎌ヶ谷市計画書』の地図によると、柏市西原の東、柏市の突出部の付け根、みどり台の西、ヨークマートの東付近に相当する。白井豊は青田新田の字捕込後を示している。『柏市郷土資料室』の推定も同様であるが、地点までの特定は難しい。『旧事考』の上野牧の捕込としても矛盾はない。 また、高田村の近く柏市庚塚付近には、1930年頃の地形図でも三角形の捕込の土手が確認でき、戦後の空中写真でも土手の一部の残存が判る。 前掲『教育史』に、1872年の三井学校設立の場所は、十余二伊勢原(トリゴメ)とあり、上野牧と同様、トリゴメと発音されていた事が示唆される。また、1879年頃伊勢原中央の地に校舎を建築したが、『教育史』発行時の1937年には跡が吉田農場の事務所になったとしている。『東葛飾郡誌』に三井小学校は三井尋常小学校と改名した後廃止、十余二尋常小学校を設置、田中村への併合時に田中尋常小学校十余二分教場となったとある。この間の地形図では、現在の柏市立十余二小学校付近以外に学校の記載はなく、同校付近が移転先の伊勢原中央であることを示す。現在の伊勢原一丁目から1キロメートル未満の距離に当たる。
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捕込
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初富駅西に北西が上の一辺約400メートルのK字の土手があった。その南、後述のV字の北東角との間に捕込があった。国道464号線南、鎌ヶ谷市中沢と初富本町の境に位置する。小金牧で唯一、形状を保ち比較的良好に残る捕込で、周囲の大込の土手も一部残る。迅速測図欄外に見通松と同様の捕込土手上の一本松の記述がある。白子の捕込とも呼ばれ、南側は字白子で、「白子」がつく公園が複数ある。 東2キロメートルに残る後述の勢子土手とともに「下総小金中野牧跡」として、牧に関する遺構の中で、2007年、初めて国の史跡に指定された。国の重要文化財には上野牧で記した旧花野井家住宅が先に指定されている。捕込は牧の最重要箇所であるが、中野牧のごく一部である。詳細は『国史跡下総小金中野牧跡保存管理計画書(案)』(以下、鎌ヶ谷市計画書)参照。中野牧だけでなく、小金牧全体に関する詳細で貴重な資料で、鎌ヶ谷市内の土手に詳しいが、くぬぎ山駅付近では正誤二種類の地図が掲載され、多少の土手の見落としもある。駅付近の土手の形状が「ヒ」形が誤、「と」形が正である。 捕込は南南東を上にして幅広の長方形を積み上げたような「品」形で、北東の区画が狭義の捕込、北西の区画が溜込、南の区画が払込である。狭義の捕込の北と東の土手は失われ、内部は私有地となり、県の史跡ではあるが、国の史跡からは外れている。『鎌ヶ谷市計画書』に、国道の北側まで捕込の土手があったとする図があるが、道自体は小金牧時代からあり、明治期の地形図に道の北側に接して大込の土手があるため、道の北側まで捕込があったとする記述とは矛盾する。鎌ヶ谷市『国史跡下総小金中野牧跡』のリーフレットでは、道が捕込の角だけを削った形で範囲は小さくなっているが、削られたのは道の拡幅による分だけで、捕込は道の南半分程度までだった事になる。溜込は西半分が失われほぼ東半分が国の史跡に含まれ、払込の土手はほぼ完全に残る。 Kの縦線の跡は道で、明治期の地形図では南端が「し」型で、Kとともに一区画を形成している。東へ延びたKの一部が残り新鎌ヶ谷駅からも見える。土手と谷津が捕込の周りの大込を形成していた。Kから続いた土手の林が2010年に失われたが、初富稲荷と先の私有地内に残る。さらに谷津頭の鎌ヶ谷市立鎌ヶ谷小学校にも続いていた。Kの/も残る。
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捕込
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『旧事考』に、捕駒の地は鎌ヶ谷、別に幕府騎乗の牧があり、捕駒の地が神保とある。船橋市神保町に牛ヶ作、金堀、南西に大穴、海老ケ作の地名がある。 捕込の一つは中野牧のすぐ南、鎌ヶ谷大仏交差点東、字大込にあり、迅速測図でも確認できる。地形的に捕込に適し、金ヶ作陣屋・江戸との交通の便が良かった。『成田名所図会』に捕込での捕馬の図解があり、笠をかぶって帯刀し鞍を置いて馬に乗る牧士、蓑笠を着け竿か棒を持った勢子、土手上の指揮所と見られる小屋、見物人、三軒の店等が描かれている。捕込の前に馬を追い込む囲土手があり、大込の土手に当たる。込・払場・種馬入場・小屋から成る捕込の平面図、馬が谷津の道を通って移送される図もある。捕込は戦後の空中写真でも2区画が視認できるほど、ほぼ完全に残っていたが、現在土手のほとんどは小道等となり、一部の痕跡だけが残る。捕込に続く土手が、付近の鎌ヶ谷・船橋市境、船橋市の突出部分を分ける位置にあった。大込は捕込の東に接した囲土手である。 『旧事考』の幕府騎乗の牧の神保の捕込は、地名、迅速測図、明治期の地形図、現在も一部残る土手、牧の範囲から、船橋市神保町の南、大穴町の北、三咲町の三咲神社付近にあったと考えられる。南西のバス停「海老ケ作」のある六差路近くに野馬土手が残り、交差点には、夜、締切る木戸があり、錠場から転じてジョッパと呼ばれていた。
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