捕込とは? わかりやすく解説

捕込

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)

小金牧」の記事における「捕込」の解説

捕込跡地当初「捕込学校」とも呼ばれた二小で、1985年まで捕込の形を模したという池があった。裏手に捕込に続いていた大込の土手が約30メートル残り二小のホームページにも記述がある。1972年頃までは屈曲しさらに東に延び、特に捕込に近い所は今より急峻だった。捕込の北半分明治45年頃までほぼ完全に残っていた。日光街道まで延びていた捕込内の土手1965年最後に失われた。捕込には街道側に2箇所、南に1箇所開口部があったが、街道側北の開口部位置に同小学校正門がある。開口部を1箇所とした資料場合正門位置一致する。『見取絵図』には一之牧取込土手記され二つ区画、2箇所街道側の開口部、捕込土手上の数本と見られる木、街道向い側街道に少し突出した土手がある。 『幸谷観音野馬捕りの献額』は、綿貫家寄贈で、上野牧の捕馬とされ、大木の下の幔幕九曜紋がある事もこれを裏付ける。馬の捕獲のほか、多数見物人複数出店屋台等が描かれている。図を拡大して見ると、消えかけた土手描かれ見物人土手上に座り土手に3箇所開口部がある事、幔幕のある御照覧場(検分所)も土手上にある事が判る高田台牧の節に記す柏市西原小学校の図では、土手復元して描かれ指導者技量の高さを示す。 捕込跡二小の斜向かい四号稲荷神社境内に、岩倉具定地元土地売却した事に対す岩倉公爵報恩碑、開拓百周年の碑がある。前者は『千葉県碑石一覧』には「岩倉報恩碑」とある大正3年5月建立とする碑と一致する近くに、岩倉具定屋敷があったとされ、西、現凸版印刷敷地には、昭和初期まで土塁囲まれ土地があった。 大込の土手は、稲荷神社西の谷津から、反時計回りに、柏市西へ突出部を横切り一部残存する土手の所から稲荷神社の約300メートル南で日光街道横切り捕込東まで続いていた。土手日光街道横切った字捕込(とりこめ)に以前込」バス停があり、上野牧での「とりごめ」の発音を示す。『見取絵図』に街道直交する土手に「大込土手」とあり、捕込の周囲の大込の土手であった事を示す。捕込は字捕込ではなく、字八丈にあたる。 大込の西は、流山市松ヶ丘千ヶ井で『南部馬史』の千飼に当たる。千飼は大込の区画御囲両方意味する詳細青木著作参照土手が道を横切る所には捕馬の際の臨時のもの含め木戸があったとしている。 捕込北、日光街道沿い字一本松に、江戸時代からあった一本松の下に明治期建てられたという一本松稲荷がある。捕込のとともに水戸街道同様、道標役割と、中野牧での鹿狩描いた享保乙巳小金中野牧鹿狩之図』に示された「見通」と同様、捕馬の際、遠くから見通すことができた。 前述一号稲荷神社は『開拓記念碑』、『木釘記念碑』とも現存豊四季冨士見の永寿稲荷神社判る。 『旧事考』の高田台の捕込については高田台牧述べる。

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小金牧」の記事における「捕込」の解説

迅速測図では、十余二の西、流山市境に、古込の捕込跡がある。(安田1958)掲載平面図によると、広義の捕込はほぼ正方形で、東半分長方形狭義の捕込、西半分のさらに北半分溜込、南半分が分込である。つくばエクスプレス(以下、TX)際の墓地当る。捕込内部区画1949年空中写真明瞭に1961年でもある程度認められる一方、すでに1928年測図の地形図で、捕込の土手内墓地記号があり、捕込内部土手が残る状態で墓地になったことを示す。したがって、墓の移動なければ墓地内の区画割がかつての捕込内の土手位置反映している。墓地南東一部TX建設に伴う道路工事によって削られた。旧高田村北の台地は高田台であり、上野牧からは谷津隔てた回り道になるが、直線距離では近く、『旧事考』の上野牧の捕込があるという高田台地名一致する千葉県立中央博物館白井豊高田の字古込後を示している。 『旧事考』にある「大青田牧」は、新込が大青田近くにあった事を示す。大青田はすでに新田であったため、大青田隣接した十余二伊勢原辺り該当する明治期には、十余二南部高田原と呼ばれていた。この捕込は、『鎌ヶ谷市計画書』収録寛政期地図にある2つの捕込のうちの北の捕込と一致する大青田北西馬場の字があり、『牧跡』掲載の『小金上野高田台御牧大凡図』には、十余二伊勢原から十余二西を経てみどり台となった辺り高田台新込とあるため、新しいが痕跡が残らなかった捕込に当たる。『小金上野高田台御牧大凡図』と『鎌ヶ谷市計画書』の地図によると、柏市西原の東、柏市突出部の付け根みどり台の西、ヨークマートの東付近に相当する白井豊青田新田の字捕込後を示している。『柏市郷土資料室』の推定も同様であるが、地点までの特定難しい。『旧事考』の上野牧の捕込としても矛盾はない。 また、高田村近く柏市庚塚付近には、1930年頃の地形図でも三角形の捕込の土手確認でき、戦後空中写真でも土手一部残存判る前掲教育史』に、1872年三井学校設立の場所は、十余二伊勢原(トリゴメ)とあり、上野牧と同様、トリゴメと発音されていた事が示唆されるまた、1879年伊勢原中央の地に校舎建築したが、『教育史発行時の1937年には跡が吉田農場事務所になったとしている。『東葛飾郡誌』に三井小学校三井尋常小学校改名した廃止十余二尋常小学校設置田中村への併合時に田中尋常小学校十余二分教場となったとある。この間地形図では、現在の柏市十余二小学校付近以外に学校記載はなく、同校付近移転先伊勢原中央であることを示す。現在の伊勢原一丁目から1キロメートル未満の距離に当たる。

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小金牧」の記事における「捕込」の解説

初富駅西に北西上の一辺400メートルのK字の土手があった。その南、後述V字北東角との間に捕込があった。国道464号線南、鎌ヶ谷市中沢初富本町の境に位置する小金牧唯一形状保ち比較良好に残る捕込で、周囲の大込の土手一部残る。迅速測図欄外見通同様の捕込土手上の一本松記述がある。白子の捕込とも呼ばれ南側は字白子で、「白子」がつく公園複数ある。 東2キロメートルに残る後述勢子土手とともに下総小金中野牧跡」として、牧に関する遺構の中で、2007年初めて国の史跡指定された。国の重要文化財には上野牧記した旧花野井家住宅先に指定されている。捕込は牧の最重要箇所であるが、中野牧ごく一部である。詳細は『国史跡下総小金中野牧跡保存管理計画書(案)』(以下、鎌ヶ谷市計画書)参照中野牧だけでなく、小金牧全体に関する詳細貴重な資料で、鎌ヶ谷市内の土手に詳しいが、くぬぎ山駅付近では正誤種類地図掲載され多少土手見落としもある。駅付近土手形状が「ヒ」形が誤、「と」形が正である。 捕込は南南東を上にして幅広長方形積み上げたような「品」形で、北東区画狭義の捕込、北西区画溜込、南の区画払込である。狭義の捕込の北と東の土手失われ内部私有地となり、県の史跡ではあるが、国の史跡からは外れている。『鎌ヶ谷市計画書』に、国道北側まで捕込の土手があったとする図があるが、道自体小金牧時代からあり、明治期地形図に道の北側接して大込の土手があるため、道の北側まで捕込があったとする記述とは矛盾する鎌ヶ谷市国史跡下総小金中野牧跡』のリーフレットでは、道が捕込の角だけを削った形で範囲小さくなっているが、削られたのは道の拡幅による分だけで、捕込は道の南半分程度までだった事になる。溜込は西半分失われほぼ東半分が国の史跡含まれ払込土手はほぼ完全に残る。 Kの縦線の跡は道で、明治期地形図では南端が「し」型で、Kとともに一区画形成している。東へ延びたKの一部残り新鎌ヶ谷駅からも見える。土手谷津が捕込の周りの大込を形成していた。Kから続いた土手2010年失われたが、初富稲荷先の私有地内に残る。さらに谷津頭の鎌ヶ谷市鎌ヶ谷小学校にも続いていた。Kの/も残る。

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小金牧」の記事における「捕込」の解説

旧事考』に、捕駒の地は鎌ヶ谷別に幕府騎乗の牧があり、捕駒の地が神保とある。船橋市神保町に牛ヶ作、金堀南西大穴海老ケ作地名がある。 捕込の一つ中野牧のすぐ南、鎌ヶ谷大仏交差点東、字大込にあり、迅速測図でも確認できる地形的に捕込に適し金ヶ作陣屋江戸との交通の便良かった。『成田名所図会』に捕込での捕馬の図解があり、笠をかぶって帯刀し鞍を置いて馬に乗る牧士蓑笠着け竿か棒を持った勢子土手上の指揮と見られる小屋見物人三軒の店等が描かれている。捕込の前に馬を追い込む土手があり、大込の土手に当たる。込・払場・種馬入場小屋から成る捕込の平面図、馬が谷津の道を通って移送される図もある。捕込は戦後空中写真でも2区画が視認できるほど、ほぼ完全に残っていたが、現在土手のほとんどは小道等となり、一部痕跡だけが残る。捕込に続く土手が、付近鎌ヶ谷船橋市境、船橋市突出部分分け位置にあった。大込は捕込の東に接した土手である。 『旧事考』の幕府騎乗の牧の神保の捕込は、地名迅速測図明治期地形図、現在も一部残る土手、牧の範囲から、船橋市神保町の南、大穴町の北、三咲町三咲神社付近にあったと考えられる南西バス停海老ケ作」のある六差路近くに野馬土手が残り交差点には、夜、締切る木戸があり、錠場から転じてジョッパ呼ばれていた。

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