下総小金中野牧跡とは? わかりやすく解説

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下総小金中野牧跡

名称: 下総小金中野牧跡
ふりがな しもうさこがねなかのまきあと
種別 史跡
種別2:
都道府県 千葉県
市区町村 鎌ケ谷市東中沢二丁目初富本町二丁目東初富一丁目
管理団体 鎌ヶ谷市
指定年月日 2007.02.06(平成19.02.06)
指定基準 史6
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 下総小金中野牧跡は、江戸幕府が自らの軍馬需要まかなうため、下総国千葉県西部設けた幕府直轄の牧の一つ中野牧遺跡である。江戸幕府は、その軍事力維持し全国支配継続する一環として軍馬安定的に確保する必要があった。そこで、下総小金牧佐倉牧安房嶺岡牧駿河愛鷹牧(静岡県)を置いた下総に牧の大半置かれたのは、江戸近傍立地し古代中世に牧が置かれていた歴史加え広大な台地平坦に続くという北総台地地形的条件があった。
 小金牧慶長年間(1595~1615)に設置され明治維新廃止されるまで存続した。江戸時代後期では高田台牧上野牧中野牧下野牧印西牧の五牧からなり北総台地西側野田市から千葉市西部)に所在した。中野牧は、現在の柏市松戸市鎌ヶ谷市白井市船橋市域に及び、享保10年(1725)八代将軍徳川吉宗による鹿狩り以降歴代将軍鹿狩りの場となったことや、「御放馬囲い」と呼ぶ将軍家等の乗用馬飼育施設設けられる等、小金五牧で最も重要視されていた。
 当初中野牧では、幕府の馬預が野馬管掌して、小金御厩置かれ綿貫氏野馬奉行世襲したが、将軍吉宗の代には、金ヶ作陣屋幕領代官中野牧下野牧牧地野馬支配当たった幕末小金牧に約一千頭の馬がいたといわれる馬の飼育谷津等によって周囲から分断され台地上で放し飼いにし、半野生の馬だったため「野馬」と呼ばれた隣接野付々に指定され労役負担しの有力農民牧士として牧の維持管理行った毎年3歳馬捕縛する野馬捕りが行われ、良馬江戸へ送られ、その他は周辺農村払い下げられ幕府収入となった野馬捕りの様子名所図絵描かれ江戸からも見物客訪れ年中行事であり、悠然と群れる野馬の姿は渡辺崋山四州真景 釜原」等に描かれた。
 牧には、捕込呼ばれる野馬捕りを行う土塁施設設けられた。馬を捕らえる「捕込」、軍馬として幕府へ送る馬や、農耕馬役馬として払い下げる馬をとどめて置く「溜込」、若い馬等を野に返す払込(分込)」の3区からなるのが基本である。また、野馬土手は野馬民家田畑への侵入防止と、野犬等の害獣の牧への侵入防止のため牧を囲むように作られたもので、牧地新田開発本格化する延宝期(1673~81以降設置され始めた考えられる。その他、捕込野馬追い込むための高さ約3m勢子土手、馬の水飲み場、牧への出入り口木戸等が設けられた。
 現在、中野牧跡には捕込跡等の牧の遺構点在している。捕込跡は白子捕込呼ばれ元文年間(1736~1741)に込を増設したことが記録にみえ、本来約7,000平方メートル規模推測される三つの込跡からなり東側の込は長方形呈し土手基底幅8から9.5m、高さ2.5から3.5m。西側の込は欠失が多いが長方形思われ土塁基底幅6から6.5m、高さ4m南側の込は不整長方形呈し土手基底幅8から9mを測る東・西の込の間並びに南側の込の東辺に口が開く。東・西の込を仕切る土手口を挟んだ北側及び南側に、役人が捕馬を検分した平場がある。また、本込跡の東方約2kmに所在する土手享保以降存在知られる勢子土手で、基底8m、高さ1.2から2.6m、延長172mを測る。その他周辺には現在も木戸因む地名や、牧に関する文献史料絵図等も多数残る。
このように、下総小金中野牧跡は江戸幕府軍馬供給のため北総台地設けた直轄の牧の一つであり、我が国近世幕府軍事力支えた軍馬生産様相を知る上で貴重であり、かつ、捕込跡や野馬土手等の遺構良好に残っていることから、史跡指定してその保護図ろうとするものである
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下総小金中野牧跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/25 10:07 UTC 版)

下総小金中野牧跡
遺構
読み仮名しもうさこがねなかのまきあと 
日本 
位置する行政区画鎌ケ谷市 
位置座標35°46′32″N 139°59′35″E 
遺産保護指定日本国指定史跡 
詳細情報URLhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/140497 

下総小金中野牧跡(しもうさこがねなかのまきあと)は、江戸幕府が軍馬育成のための放牧場として現在の千葉県北西部に設置した中野牧の一部。中野牧は、小金五牧最大の牧で、現在の松戸市柏市鎌ケ谷市白井市にまたがって広がり、かつて小金五牧の中核をなした牧であった。

中野牧跡のうち、鎌ケ谷市に所在する捕込跡と勢子土手の遺構2007年、牧関連としては全国で初めて国の史跡に指定されている[1]。本項では、おもに史跡指定に関する事象について略述する(中野牧の詳細は記事「小金牧#中野牧」参照のこと)。

概略

中野牧跡には、野馬(放し飼いの半野生馬)を追い込み捕らえて選り分ける捕込(とつこめ)跡等の牧の遺構が点在している。

捕込跡は、当時「白子捕込」と呼ばれ、文献資料には元文年間(1736年-1740年)に込を増設したことが記されている。それによれば、西の3つの込跡からなり、本来は約7,000平方メートルの規模を有していたものと考えられる。

東側の込は長方形の平面形状をなしており、土手の基底幅が8.0ないし9.5メートル、高さは2.5ないし3,5メートルの規模を有していた。西側の込は失われている箇所が多いものの、やはり長方形の形状であったと考えられ、基底幅6.0ないし6.5メートル、高さ約4メートルであったと思われる。南側の込は不整長方形を呈し、土手基底幅は8ないし9メートルであったと推測される。東側と西側の込の間、また南側の込の東辺が開放される構造をなしており、東・西の込を仕切る土手の口をはさんだ北側と南側には、幕府の役人が捕馬を検分する平場があった。

込跡の東方約2キロメートル地点にある、現存する土手は、享保年間(1716年-1736年)以降の存在が文献上確認されている勢子土手である。基底の幅は約8メートル、高さは1.2メートルないし2.6メートルの規模で、遺存箇所の長さはおよそ172メートルである。

現地には国史跡を示す石碑と説明板がある。安政5年(1858年)に佐原の清宮秀堅が著したと考えられる『成田山参詣記』には中野牧の隣の下野牧の年1回の野馬捕りの様子が描かれている。

史跡指定

下総小金中野牧跡は、1976年昭和41年)、地元の下津谷達男を中心に鎌ケ谷中学校の教員、生徒の協力を得て調査が行なわれ、翌年、千葉県の県指定史跡となった。

2007年平成19年)2月6日、江戸幕府が軍馬供給のため北総台地に設けた直轄の牧の一つであり、その軍事力を支えた軍馬生産の様相を知る上で貴重であるとして、遺存状態の良好な捕込跡、勢子土手の一部の遺構が、国の史跡に指定された。史跡名称は「下総小金中野牧跡」である。

ただし、指定区域は、中野牧全体からみればごく一部にすぎず、土手の長さで約0.1パーセント、面積では約0.008パーセントにすぎない。鎌ケ谷市においても史跡指定の際、誤解を招く名称ではないかと指摘された。

所在地

関連項目

出典

  1. ^ 鎌ケ谷市郷土資料館『鎌ケ谷のあゆみ』鎌ケ谷市郷土資料館、2017年3月24日、77頁。 

外部リンク

座標: 北緯35度46分24.1秒 東経139度59分39.5秒 / 北緯35.773361度 東経139.994306度 / 35.773361; 139.994306



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