上野牧
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上野牧(かみのまき)は、今の柏市・流山市に広がっていた牧で、高田台牧と接し、初期には中野牧とも続いていた。 柏市内、豊上町を除く本来の大字豊四季にほぼ相当する。流山市では新田等の耕作適地や薪炭林が、請願等の結果、流山市野々下・長崎等の一部となり、北部は戦後の宅地化で江戸川台となった。1878年、名都借村による18町歩余りの官有地払受け等、個人への払下げと一致する。南柏・柏と江戸川台~柏間の各駅が牧跡にある。 『旧事考』に、俗に蛇沢野といい、駒捕の地は篠籠田で、別に府士騎乗の馬場、いわゆる御囲があり、その駒捕の地は高田台で、寛政期に設けられたとある。蛇沢は後述する捕込近くの篠籠田に続く沢で、1912(明治45)年頃の『豊四季村誌』に、上の牧又は蛇澤の牧と言い、上野牧産の野馬を蛇澤野駒と称し小金牧で中等の値段だったとある。『旧事考』によると、寛政期以降の捕込は2箇所である。高田台の駒捕の地はその名称と『国史跡下総小金中野牧跡保存管理計画書(案)』(以下、鎌ヶ谷市計画書)収録の寛政期の地図から高田台牧内に相当し、高田台牧の節に記す。『旧事考』に五牧の中では最古、南北5里とあるが、末期にはその半分程度であった。『見取絵図』に一之牧とあり、小金牧中最古か初期の重視、またはその両方が示唆される。 上野牧と中野牧の間から東は、一時期手賀沼までおよんだ水戸家の鷹場で、中野牧跡近くの小金原の殿内交差点・バス停付近に水戸家御鷹場役所跡、北に役所表門跡近くにス停表門がある。近くの松戸市立根木内小学校のホームページに小金牧についての記述がある。中野牧と並び、水戸家との関係が深い。 小金宿には最も近い牧であり、小金城あるいは、牧士頭(後の野馬奉行)が在住、水戸街道の宿場で、知名度の高い小金宿から小金原の名が、さらに、小金原から小金牧の名が生じ、初期には小金牧を代表する牧であった。『土村誌』によると、江戸時代以前の小金原の名は確認できない。 小金宿には、小金御厩とも呼ばれた野馬奉行屋敷、小金御殿とも呼ばれた水戸家の旅館があった。 詳細は「小金宿」を参照 野馬奉行屋敷の場所は、北小金駅前、旧水戸街道沿いで、前掲『見取絵図』、『東葛飾郡誌』にも図示されている。前述の12代政直は綿貫家を中興、墓は流山の清瀧寺にある。北小金駅の一部は野馬奉行屋敷の敷地跡の一部に当たる。 水戸家旅館は、家臣格の日暮玄蕃が留守居役で、野馬奉行屋敷の少し南にあった。水戸家下屋敷は小金宿の東18~19丁にあった。 武田信吉が封じられ、松戸市の茂侶神社や松戸神社・本土寺にも光圀関係の伝承がある。本土寺にある信吉の生母の墓は光圀が整備し、碑を建てた。 脇街道の水戸街道と水戸街道から牧内で分岐する日光街道が通り、当時、江戸からの交通の便も良く、記録が多く残る。参勤交代・日光参拝に両街道を利用した大名、歴代の水戸藩主が通過した。柏市立柏第二小学校(柏二小)創立記念誌『豊四季』によれば、徳川家治の乗馬を放った記録、篠籠田での水戸候鹿狩、老中の馬捕獲見学の記録がある。船橋市立船橋西図書館蔵『小金原勝景絵図』に描かれ、水戸街道の新木戸・松並木・捕込の図がある。 江戸方面からの水戸街道上の上野牧の入口は、『小金紀行』以外、後述する南柏駅近くにあった新木戸を指す。出口は柏駅近くの現柏神社斜め前にあった柏木戸である。 1638(寛永15)年頃、柏木戸を出た所、現水戸屋ビル付近で、水戸藩主の休憩所にもなった茶屋、水戸屋が創業した。当時の水戸藩主は初代徳川頼房である。 1676(延宝4)年に死んだ品種改良用に輸入されたペルシャ馬に因むというオランダ観音が流山市東初石5丁目にある。オランダ観音には馬頭観音の石碑が2基あり、もう一基が、1868(明治元)年に作られたとされる。11月第一日曜日に「オランダ観音祭り」が行われている。栗毛の牡馬が暴れ、人を傷つけたため、野馬方で市野谷の鈴木庄左衛門が命を享け銃撃、住みなれた地まで逃げ水を飲んで死んだという伝承があるが、オランダ観音の碑文には病死とある。ペルシャ馬の放牧は、幕府による初期の上野牧の重視を示す。 1696〜1702(元禄9〜15)年作成の『元禄国絵図・下総国』(以下、元禄国絵図)に青田・駒木の新田、日光街道沿いの十太夫新田が記され、牧に入り込んだ新田がすでにあった事を示す。 1715(正徳5)年『駅路鞭影記』に、牧内での水戸街道の目印ともなるよう徳川光圀が命じて(令して?)牧士頭が松並木を植えたという伝承、新木戸に当る木戸と番人の記述がある。牧内の水戸街道沿いに字並木がある。旅人が迷うのを憫んだ光圀が、金を小金牧司綿貫夏右衛門に付し松千株を植えさせたとする伝承も記され、少なくとも大正期には、松並木が今谷新田から柏までの道の両側に残っていた。『駅路鞭影記』には、江戸側から小金原に入る前の向小金に人里があり、紙につけた飴を売る所がある事、「押廻しいくねにて」「はしほり木戸あり」を夜は閉め切り、少なくとも水戸藩の武士が夜通る時は番人が開ける事の記述がある。道が何度も曲がり、木戸と言うより今の踏切のような端が降りる遮断機に近い。 1730(享保15)年、上野牧の一部を大畔村が村請、大畔新田となったと『下総国葛飾郡大畔新田文書(秋元家)』にあり、かつての村と新田の境に土手が残る(2011年3月)。 1737(元文2)年に建てられたとされるオランダ様という馬頭観音が同市美原3丁目にある。吉宗がオランダを通じて輸入したペルシャ馬28頭のうちの1頭とされる。他の馬もあり、28頭の馬に該当するか不明であるが、『異国産馬図巻』に11頭のペルシャ産の馬が図示されている。 1758(宝暦8)年、土浦藩主によるとされる『土浦水戸道中絵図』に、新木戸~柏木戸(南柏~柏)間の水戸街道が描かれている。 1791(寛政3)年3月29日、小林一茶が『寛政三年紀行』に、小金原にかかり、公の馬を養う所である事と長さ四十里のため、四十里野というとの伝聞、「乳を呑む駒あり、水に望むあり、伏す有、仰ぐあり、皆々食に富て、おのがさまざまにたのしぶ」と記した。馬橋から布川への途中のため、上野牧か高田台牧に当たる。青木更吉は芭蕉が秋に「あはれ」としたのを意識して、春に「たのし」としたものと推定している。 1795(寛政7)年、家斉の鹿狩の際、上野・高田台牧の馬、計48頭は佐倉牧の矢作儀へ移された。 1798(寛政10)年7月28日の事として、『成田の道の記』に我孫子から小金への途中、「やうやう小金の原にかかる。松並木左右、中通り往還、並木の両外は目の及ばぬ廣き草原なり」「巷の水たまりて」「草原に野駒あまた遊び居る様、また風情なり」とある。 1816(文化13)年、釈敬順『十方庵遊歴雑記江戸雀後編4編』に、高い土手、土手の食違いを夜〆切る侘しき藁屋に住む番人の記述がある。 1817(文化14)年9月7日、村尾嘉陵『江戸近郊道しるべ』別写本による『嘉陵紀行』に、江戸から野飼の馬を見に上野牧を訪れた記述がある。水戸街道沿い向小金村、現存する香取神社前にあった一里塚近くの草鞋を売る家の主、大工「和泉や弥五郎」の話として、牧は水戸街道より北が上の牧で、へいび沢原・高田台・大田前から成り、へいび沢原に馬とり場がある事、街道より南が下の牧で、日ぐらし山・五助原・平塚・白子の計七牧から成る事等の記述がある。幕府の文書との違いもあるが、野付村の分担等による地元での認識と考えられ、小金五牧としていない事も判る。へいび沢は、土人の訛から聞き取り難く、後日、人に確認し、蛇沢だったとある。柏市大青田は国立歴史民俗博物館蔵『旧高旧領取調帳』にオウダとあり、今でもオオタ・オオウタとも言う。他の地名は中・下野牧参照。図も含め、牧入口の木戸、向かって左の番屋、竹がうえられた野馬土手、牧内の松並木、水戸街道から約一里北の馬が集まる山の記述がある。山は下の牧内とあるが、方向からは上の牧が正しい。捕込を「追込の升」と記している。現在、香取神社から見て左に、前述「下陰を」の句と一里塚跡の碑がある。日光街道『見取絵図』に、神社から見て右と道の向いに一里塚がある。『嘉陵紀行』には馬橋村まで現江戸川沿いがすべて水戸殿御鷹場で、馬橋の所々、『房総叢書』収録『小金紀行』(その1)には、流山市名都借に水戸殿御鷹場である事を示す傍示杭の記述がある。『見取絵図』には、現松戸市の松戸宿〜久保平賀町に9箇所11基の「水戸殿鷹場杭」がある。 1820(文政3)年、高田与清『鹿島日記』に、そこここで群れて草を食べる馬、かまが谷・大和田・千葉などにつづき大変広い事、臙脂鹿毛(ベニカゲ)というどうしても捕獲できず、牧長が神かと不思議がる馬の記述等がある。 1829(文政12)年〜1859(安政6)年、水戸藩主は徳川斉昭であった。1919(大正8)年『東葛飾郡案内』に、前述「水戸屋は水戸烈公に因みあり、櫻株の家印は烈公より賜りしもの」とあり、水戸徳川家から拝領の弁当箱と象牙の箸も所有、2003年まで旅館を営んでいた。水戸屋ビルの向いの野馬土手跡沿いの道に面して、水戸屋が水戸公の命で建てたという櫻株稲荷が現存する。 1841(天保12)年、前掲『小金紀行』に江戸から流山を経て諏訪神社を訪れた記述がある。野々下を過ぎ物売る家を過ぎると小金野、とあり、諏訪神社前の「諏訪道」を通って上野牧に入った事を示す。神社の南が馬場のようである事、神社の東方、駒木の集落前の木戸の記述がある。 1845(弘化2)年、『江戸近郊図』には、水戸街道・柏の北側に「小金ヶ原」とある。水戸街道は小金から流山市長崎を迂回する形である。 1851(嘉永4)年12月15日、吉田松陰『東北遊日記』に、小金駅の後「過駅則広原漫々 即小金原 而幕府操場也 見野馬九匹」の記述がある。 1855(安政2)年、赤松宗旦『利根川図志』に、『附手賀沼邊紀行』として宗旦の友人が安政大地震の直後に上野牧を訪れ、『鹿島日記』の臙脂鹿毛、林冠が蓋のような松並木、水戸家の鷹場、時刻が遅いせいか馬を見かけなかった事の記述がある。 1868(慶應4・明治元)年、4月12日、徳川慶喜が松戸に一泊後、上野牧を通過、随員は西周や護衛の精鋭隊、高橋泥舟を隊頭とする遊撃隊等であった。 1869〜1872年の豊四季への東京移住窮民は80戸263人、近傍移住窮民122戸437人、1883年163人が授産処分を受けた。 1871(明治4)年、「下総国開墾場 小金牧内 上野牧 水戸街道」の松並木について『府県往復 下総小金牧内風折木払下代の件三井八郎右衛門願東京府達』があり、水戸街道沿いの松並木と上野牧跡も三井が取り仕切っていた事を示す。 1885(明治16)年12月6・12日、天皇が茨城県への往復の途上通過、水戸藩主と同様、松戸・小金・柏で休憩、柏での休憩は牧跡外の寺嶋五兵衛宅で、旧寺嶋駐車場裏に石碑がある。 1889(明治20)年4月3日、正岡子規が同郷の友人と2人で水戸街道を通り牧跡を通過した記述が、『水戸紀行』にある。小金駅の後、縄手道(並木道)にかかり、我孫子まで約2里の所の「むさくろしい」家での食事と東京と違い杓文字を杓子と言う話、二三十間行った所のふかし芋を売る芋屋の記述がある。現南柏駅近く、柏市に入った所であるが、牧に関する記述はない。友人は、多駄八、多駄次、吉田の少将多駄次と表現され、子規と同じ本郷台の寄宿舎にいて、この時十八、千葉日報2008年12月の『房総の作家』によると吉田匡である。子規は後に、『子規全集』に収録された『俳家全集ニ』において、小林一茶文政10年の句の例の一つに、「小金原」と題し「母馬が番して飲ます清水哉」をあげている。 1919(大正8)年、前述『東葛飾郡案内』に、千代田村は旧小金牧の中央で、村長芳野謙一郎は幕末の志士芳野金陵の後裔との記述がある。病院は柏駅前に松岡眼科医院、松ヶ崎に巻石堂、如春堂、済生堂があり、巻石堂以下の院主は順に、芳野謙一郎、やはり金陵の後裔芳野幸之助、その弟、文蔵で、旅館は釜屋、恵比屋、前述水戸屋があると記されている。その後、水戸街道沿いに、巻石堂が移転してきており、2015年現在、恵比屋、水戸屋の跡に、それぞれ同名のビルがある。 1920(大正9)年、田山花袋は『東京の近郊』常磐線の節に、北小金を過ぎて牧に入り、通過の度、一茶の「時雨るや」の句が口から出る等と記し、南柏駅はまだなかったため、土手の残存による牧の境界の明確さと、牧の知名度が示唆される。花袋は総武線の節では、牧が我孫子まで及ぶと記している。 1921(大正10)年、『千葉県内碑石一覧』に、豊四季一号稲荷神社境内の『開拓記念碑』建立の記述がある。 1926(大正15)年、豊四季一号稲荷神社境内に『木釘記念碑』が建立された。 安田初雄『近世における本邦の置付放牧に関する地理的研究(その1)』(安田1958)に当牧と高田台牧を中心とした詳細な記述がある。 石田寛(岡山大学)『GEOGRAPHICAL STUDIES ON PASTURAGE AND PASTRAL AREA IN JAPAN』に『小金原勝景図』の捕込の図がある。
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