上野牧とは? わかりやすく解説

上野牧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 05:57 UTC 版)

小金牧」の記事における「上野牧」の解説

上野牧(かみのまき)は、今の柏市流山市広がっていた牧で、高田台牧接し初期には中野牧とも続いていた。 柏市内、豊上町を除く本来の大字豊四季にほぼ相当する流山市では新田等の耕作適地薪炭林が、請願等の結果流山市野々下長崎等の一部となり、北部戦後宅地化江戸川台となった1878年名都借による18町歩余り官有地払受け等、個人への払下げ一致する南柏江戸川台間の各駅が牧跡にある。 『旧事考』に、俗に蛇沢野といい、駒捕の地は篠籠田で、別に府士騎乗馬場いわゆる御囲があり、その駒捕の地は高田台で、寛政期設けられたとある。蛇沢後述する捕込近く篠籠田に続く沢で、1912(明治45年頃の『豊四季村誌』に、上の牧又は蛇澤の牧と言い、上野牧産の野馬蛇澤野駒称し小金牧中等値段だったとある。『旧事考』によると、寛政期以降捕込は2箇所である。高田台の駒捕の地はその名称と『国史跡下総小金中野牧跡保存管理計画書(案)』(以下、鎌ヶ谷市計画書)収録寛政期地図から高田台牧内に相当し高田台牧の節に記す。『旧事考』に五牧の中では最古南北5里とあるが、末期にはその半分程度であった。『見取絵図』に一之牧とあり、小金牧最古初期重視、またはその両方示唆される。 上野牧と中野牧の間から東は、一時期手賀沼までおよんだ水戸家鷹場で、中野牧近く小金原殿内交差点バス停付近に水戸家御鷹場役所跡、北に役所表門近くにス停表門がある。近く松戸市立根木内小学校ホームページ小金牧についての記述がある。中野牧並び水戸家との関係が深い。 小金宿には最も近い牧であり、小金城あるいは、牧士頭(後の野馬奉行)が在住水戸街道宿場で、知名度の高い小金宿から小金原の名が、さらに、小金原から小金牧の名が生じ初期には小金牧代表するであった。『土村誌』によると、江戸時代以前小金原の名は確認できない小金宿には、小金御厩とも呼ばれた野馬奉行屋敷小金御殿とも呼ばれた水戸家旅館があった。 詳細は「小金宿」を参照 野馬奉行屋敷の場所は、北小金駅前、旧水戸街道沿いで、前掲見取絵図』、『東葛飾郡誌』にも図示されている。前述12代政直は綿貫家中興、墓は流山清瀧寺にある。北小金駅一部野馬奉行屋敷敷地跡の一部に当たる。 水戸家旅館は、家臣格の日暮玄蕃留守居役で、野馬奉行屋敷の少し南にあった水戸家下屋敷小金宿の東1819にあった武田信吉封じられ松戸市茂侶神社松戸神社本土寺にも光圀関係の伝承がある。本土寺にある信吉生母の墓は光圀整備し、碑を建てた脇街道水戸街道水戸街道から牧内で分岐する日光街道通り当時江戸からの交通の便良く記録多く残る。参勤交代日光参拝に両街道利用した大名歴代水戸藩主通過した柏市立柏第二小学校二小)創立記念誌『豊四季によれば徳川家治乗馬放った記録篠籠田での水戸鹿狩老中の馬捕獲見学記録がある。船橋市船橋西図書館小金原勝景絵図』に描かれ水戸街道新木戸・松並木捕込の図がある。 江戸方面からの水戸街道上の上野牧の入口は、『小金紀行』以外、後述する南柏駅近くにあった新木戸を指す。出口柏駅近くの現柏神社斜め前にあった柏木戸である。 1638(寛永15年頃柏木戸を出た所、現水戸ビル付近で、水戸藩主休憩所にもなった茶屋水戸屋が創業した当時水戸藩主初代徳川頼房である。 1676(延宝4)年に死んだ品種改良用に輸入されペルシャ馬に因むというオランダ観音流山市東初石5丁目にある。オランダ観音には馬頭観音石碑が2基あり、もう一基が、1868明治元)年に作られとされる11月第一日曜日に「オランダ観音祭り」が行われている。栗毛牡馬暴れ、人を傷つけたため、野馬方市野谷鈴木左衛門が命を享け銃撃住みなれた地まで逃げ水飲んで死んだという伝承があるが、オランダ観音碑文には病死とある。ペルシャ馬の放牧は、幕府による初期の上野牧重視を示す。 1696〜1702(元禄9〜15)年作成の『元禄国絵図下総国』(以下、元禄国絵図)に青田駒木新田日光街道沿いの十太夫新田記され、牧に入り込んだ新田がすでにあった事を示す。 1715(正徳5)年『駅路鞭影記』に、牧内での水戸街道目印ともなるよう徳川光圀命じて令して?)牧士頭が松並木植えたという伝承新木戸に当る木戸番人記述がある。牧内の水戸街道沿いに字並木がある。旅人が迷うのを憫んだ光圀が、金を小金牧綿貫右衛門付し松千植えさせたとする伝承記され少なくとも大正期には、松並木今谷新田からまでの道の両側残っていた。『駅路鞭影記』には、江戸側から小金原に入る前の向小金人里があり、紙につけた飴を売る所がある事、「押廻しいくねにて」「はしほり木戸あり」を夜は閉め切り少なくとも水戸藩武士が夜通る時は番人開ける事の記述がある。道が何度も曲がり木戸と言うより今の踏切のような端が降りる遮断機に近い。 1730(享保15)年、上野牧の一部大畔村請大畔新田となったと『下総国葛飾郡大畔新田文書秋元家)』にあり、かつての新田の境に土手が残る(2011年3月)。 1737(元文2)年に建てられとされるオランダ様という馬頭観音が同市美原3丁目にある。吉宗オランダ通じて輸入したペルシャ28頭のうちの1頭とされる他の馬もあり、28頭の馬に該当する不明であるが、『異国産馬図巻』に11頭のペルシャ産の馬が図示されている。 1758(宝暦8)年、土浦藩主によるとされる土浦水戸道中絵図』に、新木戸~柏木戸(南柏)間の水戸街道描かれている。 1791(寛政3)年3月29日小林一茶が『寛政三年紀行』に、小金原にかかり、公の馬を養う所である事と長さ四十里のため、四十里野というと伝聞、「乳を呑む駒あり、に望むあり、伏す有、仰ぐあり、皆々食に富て、おのがさまざまにたのしぶ」と記した馬橋から布川への途中のため、上野牧か高田台牧に当たる。青木更吉は芭蕉秋に「あはれ」としたのを意識して春に「たのし」としたもの推定している。 1795(寛政7)年、家斉鹿狩の際、上野高田台牧の馬、計48頭は佐倉牧矢作儀へ移された。 1798(寛政10)年7月28日事として、『成田道の記』に我孫子から小金への途中、「やうやう小金の原にかかる。松並木左右中通り往還並木の両外は目の及ばぬ廣き草原なり」「巷の水たまりて」「草原野駒あまた遊び居る様、また風情なり」とある。 1816文化13)年、釈敬順『十方遊歴雑記江戸雀後編4編』に、高い土手土手食違いを夜〆切る侘しき藁屋に住む番人記述がある。 1817文化14)年9月7日村尾嘉陵江戸近郊道しるべ』別写本による『嘉陵紀行』に、江戸から野飼の馬を見に上野牧を訪れた記述がある。水戸街道沿い向小金現存する香取神社前にあった一里塚近く草鞋を売る家の主、大工和泉弥五郎」の話として、牧は水戸街道より北が上の牧で、へいび沢原高田台大田前から成り、へいび沢原に馬とり場がある事、街道より南が下の牧で、日ぐらし山・五助原・平塚・白子の計七牧から成る事等の記述がある。幕府文書との違いもあるが、野付分担等による地元での認識考えられ小金五牧としていない事も判る。へいび沢は、土人の訛から聞き取り難く後日、人に確認し蛇沢だったとある。柏市大青田国立歴史民俗博物館旧高旧領取調帳』にオウダとあり、今でもオオタ・オオウタとも言う。他の地名中・下野牧参照。図も含め、牧入口木戸向かって左番屋、竹がうえられた野馬土手、牧内の松並木水戸街道から約一里北の馬が集まる山の記述がある。山は下の牧内とあるが、方向からは上の牧が正しい。捕込を「追込の升」と記している。現在、香取神社から見て左に、前述下陰を」の句と一里塚跡の碑がある。日光街道見取絵図』に、神社から見て右と道の向い一里塚がある。『嘉陵紀行』には馬橋村まで現江戸川沿いがすべて水戸殿御鷹場で、馬橋所々、『房総叢書収録小金紀行』(その1)には、流山市名都借水戸殿御鷹場である事を示す傍示記述がある。『見取絵図』には、現松戸市松戸宿久保平賀町に9箇所11基の「水戸殿鷹場」がある。 1820文政3)年、高田与清鹿島日記』に、そこここ群れて食べる馬、かまが谷・大和田千葉などにつづき大変広い事、臙脂鹿毛(ベニカゲ)というどうしても捕獲できず、牧長が神かと不思議がる馬の記述等がある。 1829(文政12)年〜1859(安政6)年、水戸藩主徳川斉昭であった1919大正8)年『東葛飾郡案内』に、前述水戸屋は水戸烈公因みあり、家印烈公より賜りしもの」とあり、水戸徳川家から拝領弁当箱象牙の箸所有2003年まで旅館営んでいた。水戸ビル向い野馬土手跡沿いの道に面して水戸屋が水戸公の命で建てたという稲荷現存する。 1841(天保12)年、前掲小金紀行』に江戸から流山経て諏訪神社訪れた記述がある。野々下過ぎ物売る家を過ぎると小金野、とあり、諏訪神社前の「諏訪道」を通って上野牧に入った事を示す。神社の南が馬場のようである事、神社東方駒木集落前の木戸記述がある。 1845(弘化2)年、『江戸近郊図』には、水戸街道北側に「小金ヶ原」とある。水戸街道小金から流山市長崎迂回する形である。 1851(嘉永4)年12月15日吉田松陰東北遊日記』に、小金駅の後「過駅則広原漫々小金原幕府操場也 見野馬九匹」の記述がある。 1855(安政2)年、赤松宗旦利根川図志』に、『附手沼邊紀行』として宗旦の友人安政大地震直後に上野牧を訪れ、『鹿島日記』の臙脂鹿毛林冠のような松並木水戸家鷹場時刻が遅いせいか馬を見かけなかった事の記述がある。 1868慶應4・明治元)年、4月12日徳川慶喜松戸一泊後、上野牧を通過随員西周護衛精鋭隊高橋泥舟を隊頭とする遊撃隊であった。 1869〜1872年豊四季への東京移住窮民80263人、近傍移住窮民122437人、1883年163人が授産処分受けた。 1871(明治4)年、「下総国開墾小金牧内 上野牧 水戸街道」の松並木について『府県往復 下総小金牧内風折木払下代の件三井八郎右衛門東京府達』があり、水戸街道沿いの松並木と上野牧跡も三井取り仕切っていた事を示す。 1885(明治16)年12月6・12日天皇茨城県への往復途上通過水戸藩主と同様、松戸小金休憩での休憩は牧跡外の寺嶋兵衛宅で、旧寺嶋駐車場裏に石碑がある。 1889(明治20)年4月3日正岡子規同郷友人2人水戸街道通り牧跡を通過した記述が、『水戸紀行』にある。小金駅の後、縄手道並木道)にかかり、我孫子まで約2里の所の「むさくろしい」家での食事東京違い杓文字杓子と言う話、二三間行った所のふかし芋を売る屋の記述がある。現南柏駅近く柏市入った所であるが、牧に関する記述はない。友人は、多駄八、多駄次、吉田少将多駄次と表現され子規と同じ本郷台寄宿舎にいて、この時十八千葉日報2008年12月の『房総作家』によると吉田匡である。子規は後に、『子規全集』に収録された『俳家全集ニ』において、小林一茶文政10年の句の例の一つに、「小金原」と題し母馬が番して飲ます清水哉」をあげている。 1919大正8)年、前述東葛飾郡案内』に、千代田村は旧小金牧中央で、村長芳野一郎幕末の志士芳野金陵後裔との記述がある。病院柏駅前に松岡眼科医院、松ヶ崎に巻石堂如春堂、済生堂があり、巻石堂以下の院主は順に、芳野一郎、やはり金陵後裔芳野幸之助、その弟、文蔵で、旅館釜屋、恵比屋、前述水戸屋があると記されている。その後水戸街道沿いに、巻石堂移転してきており、2015年現在、恵比屋、水戸屋の跡に、それぞれ同名ビルがある。 1920(大正9)年、田山花袋は『東京近郊常磐線の節に、北小金過ぎて牧に入り通過の度、一茶の「時雨るや」の句が口から出る等と記し南柏駅はまだなかったため、土手残存による牧の境界明確さと、牧の知名度示唆される花袋総武線の節では、牧が我孫子まで及ぶと記している。 1921大正10)年、『千葉県碑石一覧』に、豊四季一号稲荷神社境内の『開拓記念碑建立記述がある。 1926(大正15)年、豊四季一号稲荷神社境内に『木釘記念碑』が建立された。 安田初雄『近世における本邦の置付放牧に関する地理的研究その1)』(安田1958)に当牧と高田台牧中心とした詳細な記述がある。 石田寛岡山大学)『GEOGRAPHICAL STUDIES ON PASTURAGE AND PASTRAL AREA IN JAPAN』に『小金原勝景図』の捕込の図がある。

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