廃止と開墾
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)
詳細は「小金原開墾」を参照 1868(慶応4)年、新政府によって牧の開墾の方針が示された。小金牧の牧士たちは小金・佐倉牧の全廃に反対する嘆願書を提出している。 1869(明治2)年、牧は廃止、『東京府戸籍改正ニ付無産ノ徒武州小金原ヘ移シ開墾ニ使役附下総国三牧其他不毛地開墾東京府掌管』とし、東京府管轄で開墾が開始された。 同年の『房総牧々野馬払下代金上納方達』は牧廃止後の野馬の残留と払下げを示す。 表向き、開墾後の土地は入植者に与えるとされた一方、現地で開墾を取り仕切った三井組等の開墾会社とその出資者には、出資額に応じた土地を与えるとされていた。開墾・入植にあたり、会社は『東京授産場』を設け、授産場を、築地合引橋、同備前橋(岡山藩上地)等の入植準備を行ったと『小金原開墾之不始末』にある。後述する豊四季の稲荷神社内『開拓百周年記念碑』には、入植者が旧備前邸等で予め訓練を受けたとある。『東京府へ掛合築地元備前邸地所御引渡方の件』で、築地本願寺北の旧備前藩屋敷である事と1972(明治5)年には、不要になっていた事が確認できる。『東京都公文書館蔵書目録(明治期)』では、築地出張所開墾局とある。 『小金原開墾之不始末』には、住民の弾圧に警官も直接関わっていた事、三井の社員が入植者に勝手にノルマを課し、達成できないと懲罰房に入れた事等、入植者からの搾取、土地の奪取に無法の限りを尽くした事の記述がある。田中久右衛門『維新以来三井家奉公履歴』に三井の開墾事業の総頭取拝命、明治政府に対する資金提供等は功績として記されている。 1871(明治4)年1月、牧士は開墾局の所属となり、翌年5月に廃止された。1875(明治8)年『千葉県下牧々野馬除ケ土手堀同県ヘ引渡届』が、野馬の収容の完了を示唆する。 1872(明治5)年、開墾会社の解散時には、多くの非出資入植者には耕作権だけが与えられ、ごく少数の大地主、少数の地主、多数の小作農が生じた。非開墾地、特に野馬土手とその隣接地は自動的に公有地となり、軍用地、後に小学校等公共施設の用地の一部となった所、日露戦争戦費調達のために払下げられた所、三井が取得所有した土地も多い。発掘調査報告書で地先等と記され地番のない所は公有地である事を示す。東京の窮民だけでは開墾が進まず、入植した近隣の農民・自費による耕作地への通い農民も加えられた。近隣の農民は東京の窮民と違い、旧牧内の薪炭林等への権利があったはずであるが、旧牧内の耕作地や薪拾いについても、争議に発展した例がある。 開墾地には、ほぼ集落ごとに神社が建立された。通常、神社は南向きのため、野馬土手の南の集落では、野馬土手のすぐ南に神社が建てられた事が多く、敷地の北縁が野馬土手となった神社もいくつかある。野馬土手が失われた後も多くの神社が残る。 他からの士族・江戸の職人等失職者の入植により、旧牧内外のわずかな方言の違いが1970年頃までは存在した。正岡子規が記した東京との方言の違いは上野牧の項に記す。 1877(明治10)年と翌年、東京大学のモンタギュー・フェントンが蝶の採集に訪れ、政府に雇われた外国人の小金牧への旅行には許可を要した事を示す。 1887(明治20)年『京都府平民三井高福ニ金盃ヲ下賜シ千葉県平民西村郡司外一名ヘ藍授褒章授与ノ件』との文書もある。外一名とは元佐賀藩士深川亮蔵で、佐賀藩の関係者が利権を得ていた事を示す。 1894(明治27)と翌年、開墾会社に対する争議・法廷闘争は続き、岩瀬謙超『小金佐倉十牧開墾授産地回復請願書』、前掲『小金原開墾之不始末』が出版され、田中正造も1896(明治29)年に国会で取り上げた。人力での開墾に適した土地の多くはすでに新田となっていたため、開墾は困難で、開墾会社の搾取もあり、ほとんどの耕作地は戦後まで入植者(の子孫)の所有にはならなかった。 地理的人的条件等、間接的な理由によるが、明治以降も牧場・競馬場等、馬に関わるいくつかの施設が置かれた。中野牧のように酪農が行われた所もあり、今も牧場がいくつか残る。 一帯は、常に馬が草を食べ、薪炭林等として利用されてきたため、1970年には「極相林を見る事は希(沼田真) 」であったが、現存する土手には、ケヤキ・クヌギ・コナラ等を優占種とする二次林としての雑木林・斜面林がある所も多く、かつて里山の一部であった。森林が残る所では、騒音緩和や「緑の回廊」としての効果もあるが、保存の措置が取られている所は少ない。
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