廃止と遺構
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/15 15:29 UTC 版)
1906年(明治39年)、豊橋電灯は事業目的に動力用電力の販売を加えた上で豊橋電灯へと社名を変更。そして需要増加に対応するために南設楽郡作手村(現・新城市)に出力360キロワットの見代水力発電所を建設し、次いで1909年(明治42年)下地町に新しい火力発電所(出力150キロワット)を完成させた。逓信省の資料によると、1910年(明治43年)の段階では他2つの発電所に混ざって牟呂発電所も運転されていたとある。1912年(明治45年)2月、豊橋電気は南設楽郡長篠村(現・新城市)を流れる寒狭川に出力500キロワットの長篠発電所を完成させる。その3年半後の1915年(大正4年)9月1日付で逓信省の廃止許可があり、牟呂発電所は廃止となった。 廃止から70年以上経った1989年(平成元年)、大西地区で宅地造成のため土地区画整理事業が実施された際に牟呂発電所建屋の基礎が発掘された。この遺構は測量後に撤去されたが、牟呂用水には用水路の改修後も取水門の門柱とみられる遺構が残されている。
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