牟呂発電所
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牟呂発電所(むろはつでんしょ)は、明治末期に豊橋市への電気供給を担った発電所である。豊橋市牟呂大西町(当時の渥美郡牟呂村)に位置した。
- ^ a b c d e f g 豊橋市史編集委員会(編)『豊橋市史』第三巻、豊橋市、1983年、708-718頁
- ^ a b c d 浅野伸一「水力技師大岡正の人と業績」『シンポジウム中部の電力のあゆみ』第4回講演報告資料集(電気技術の開拓者たち)、中部産業遺産研究会、1996年、42-53頁
- ^ a b c d e f g h i j k l m 石田正治「牟呂発電所遺構の調査研究」『産業遺産研究』、産業遺産研究編集委員会、1996年6月、 59-69頁
- ^ 豊橋百科事典編集委員会(編)『豊橋百科事典』、豊橋市文化市民部文化課、2006年
- ^ a b 「豊橋電燈株式會社第五回事業報告書」(愛知県公文書館蔵)
- ^ 『電気事業要覧』明治43年、逓信省電気局、1910年、362-363頁。NDLJP:805423/206
- ^ 「豊橋電気株式会社第44回営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)
- 1 牟呂発電所とは
- 2 牟呂発電所の概要
- 3 建設の経緯
- 4 設備構成
- 5 関連項目
牟呂発電所
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「豊橋電気 (1894-1921)」の記事における「牟呂発電所」の解説
詳細は「牟呂発電所」を参照 位置(水門跡):.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度45分15.0秒 東経137度21分21.5秒 / 北緯34.754167度 東経137.355972度 / 34.754167; 137.355972 (牟呂発電所水門跡) 豊橋電灯が1894年(明治27年)4月の開業に際して設置した発電所は梅田川発電所という。豊橋近郊を流れる梅田川に設けられた水力発電所であり、所在地は渥美郡高師村字車(現・豊橋市浜道町字車)。県への出願内容および当時の専門誌『電気之友』によると、設備は東京三吉電機工場製で、水車はレッフェル型水車、発電機は出力15キロワット(16燭灯300灯相当)・電圧2,000ボルトの単相交流発電機であった。ところがこの発電所は水量不足のため満足な発電ができず、結局三吉製のボイラー・蒸気機関(出力25馬力)を設置し火力発電を併用せざるを得なかった。 失敗に終わった梅田川発電所の代替として建設された発電所が牟呂発電所である。所在地は渥美郡牟呂村大西(現・豊橋市牟呂大西町)。牟呂用水を利用する水力発電所で、用水路に水門を置き、その若干下流の左岸側に建屋を構えた。運転開始は1896年(明治29年)4月下旬。水力発電所であるが梅田川発電所と同様に水量不足という欠陥が生じ、完成2か月後には蒸気機関が追加されて火力発電中心の発電所とされている。 『電気之友』によると、発電所設備はボイラー・蒸気機関各2台、ハーキュルス型50馬力水車1台、ホプキンソン型30/50キロワット単相交流発電機各1台を備えた。2台の発電機のうち運転開始時からのものは30キロワット発電機で、需要増加のため1900年(明治33年)に50キロワット機で置き換えたのち、1905年(明治38年)4月蒸気機関増設により旧発電機を再稼働させて発電所出力を80キロワットへと増強する、という過程を経ている。製造は初期設備が三吉電機工場、増設分が芝浦製作所(現・東芝)である。 下記長篠発電所の完成後、1915年(大正4年)9月1日付で廃止許可が下り廃止された。遺構として牟呂用水に水門が残る。
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