創業期の苦心
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「豊橋電気 (1894-1921)」の記事における「創業期の苦心」の解説
豊橋電灯は発電所を建設するにあたり、設立前の調査段階で関わりのあった技師大岡正に設計・工事を担当させた。大岡は水力発電勃興期のごく初期から発電所建設に携わった技師であり、京都市営蹴上発電所に続く国内2番目の事業用水力発電所である箱根電灯湯本発電所を建設した経験を持つ。大岡にとって豊橋電灯における発電所建設は箱根・浜松(失敗)に続く3か所の施工事例となった。その豊橋電灯の水力発電所は、豊橋の市街から10キロメートルほど離れた渥美郡高師村(現・豊橋市)の梅田川に建設された。発電用水車は農業用水車を買収して改造したもの。発電機は出力15キロワット・電圧2,000ボルトの交流発電機を置いた。発電所は1894年3月には完成した。 そして豊橋電灯は1894年4月1日開業に至った。名古屋電灯に続く中部地方2番目、全国でも前年の日光電力(栃木県)に続いて15番目に開業した電気事業者となった。こうして開業に漕ぎつけた豊橋電灯であったが、梅田川発電所の水量不足という問題が発生した。梅田川発電所は当時まだ希少な水力発電所(愛知県下では第一号)であり、名古屋電灯がいまだ低圧送電方式を採り隣町への配電ができていない中で高圧送電方式を用いたことは技術的には画期的であったものの、現実には水量不足のため電灯点火は順調ではなく光量がランプに及ばないことすら多々あった。この光量不足対策として、豊橋電灯では梅田川発電所に補助動力となる蒸気機関を据え付けて火力発電併用とする選択をした。 大岡が豊橋の前に手掛けた浜松電灯では水力発電が失敗に終わった後蒸気機関による火力発電で開業するまで2年を要した(豊橋に遅れて1895年10月開業)が、豊橋電灯ではあらかじめ蒸気機関設置の手配をしつつ水力発電だけで開業し、追って1894年6月に蒸気機関の設置工事を完了した。火力併用の発電が好成績を収めると点灯申込みは増加に向かう。最初の決算である6月末時点では需要家数47戸・点灯数143灯、1年後の1895年(明治28年)6月末時点では点灯数478灯を数えた。 梅田川での発電が失敗に終わったことから、豊橋電灯では水力発電に適する別の地点を調査し、豊川上流(寒狭川)の開発を計画する。しかし工事費が約25万円にのぼることから断念し、替わりに近郊の牟呂用水を利用して牟呂村大西(現・豊橋市牟呂大西町)に牟呂発電所を新設する方針を決定した。この牟呂用水は神野新田に通ずる用水路で、1894年に完成したばかりであった。1895年5月、梅田川発電所の設備を製作した三吉電機工場との間で、既設設備一式を原価で引き取らせた上で新しい水車・発電機を発注するという契約を締結。そして名古屋電灯技師の丹羽正道に発電所設計を任せ、翌1896年4月に牟呂発電所を完成させた。こうして発電所を梅田川から移したものの、牟呂用水も水量不足であり、完成2か月後には蒸気機関を設置して火力併用の発電所としている。
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創業期の苦心
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「中部電力 (1930-1937)」の記事における「創業期の苦心」の解説
開業当初は電灯料金が高額で、従来の照明に比べて贅沢品であった。発電所には16燭灯換算1000灯の供給力があったが、それに対して1897年末時点での成績は需要家436戸・灯数755灯に留まった。さならる需要開拓のため配電線を延長する必要があったが、創業者3名は資金繰りに窮し、田中功平・近藤重三郎の両名は杉浦銀蔵に対して向こう6年半経営を委任するとして岡崎電灯から一旦退いてしまった。委任経営期間は1898年(明治31年)7月から1904年(明治37年)12月までであった。 とはいえ資金的余裕がないのは経営を任された杉浦も同じであった。そこで知己の手島鍬司を介して岡崎有数の資産家である早川休右衛門(16代目、八丁味噌醸造元)に支援を要請、その後援を得ることに成功した。岡崎電灯創業者に対する世評が悪く周りから会社が敬遠されつつあった中、早川の手形保証がつくと金融が円滑となり、町内全域への配電線架設が一挙に進行。翌1899年(明治32年)には供給灯数が1,300灯に達して発電所の増設を要するまでになった。ところが事業拡大の最中の1899年10月2日、経営を引き受けていた杉浦が死去した。これを受けて岡崎電灯の経営は養子の松四郎が杉浦銀蔵の名を襲名(3代目杉浦銀蔵)した上で引き継いだ。3代目銀蔵は襲名から半年後に家業の呉服商を廃業、家財道具を競売して借財を整理し、岡崎電灯の経営に専念することとなった。 1900年(明治33年)12月、岩津発電所において水車1台と52kW発電機の増設が完成した。これを機に岡崎町周辺と発電所付近に供給を拡大している。特に製糸・製布業者からの申し込みが多くあり、拡張した供給力もやがて消化して1906年(明治39年)には供給灯数2,600灯を数えた。電灯需要の一方で動力用電力の需要は小さく、1898年に岡崎の米屋が水車のかわりに電動精米機を取り付けて使用したのが最初の事例となった。 岡崎電灯の事業が軌道に乗ると、各地からの事業見学者が増加した。1900年代初頭にかけてその水力発電事業が模範とされたためであり、岡崎電灯関係者も各地で事業に関与することとなった。その一つが同じ三河地方の三河電力(後の東海電気)である。西加茂郡の今井磯一郎に岡崎電灯関係者(杉浦・田中・近藤の3名と大岡正)が加わって1901年3月に設立された会社で、本社を岡崎電灯社内に置いていた。同社は矢作川支流の田代川(西加茂郡小原村)での発電所建設を企画。翌1902年(明治35年)9月、出力200kWの小原発電所を完成させ、東春日井郡瀬戸町(現・瀬戸市)で配電を始めた。
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