創業期の苦心とは? わかりやすく解説

創業期の苦心

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 15:13 UTC 版)

豊橋電気 (1894-1921)」の記事における「創業期の苦心」の解説

豊橋電灯発電所建設するにあたり設立前調査段階関わりのあった技師大岡正に設計工事担当させた。大岡水力発電勃興期のごく初期から発電所建設携わった技師であり、京都市蹴上発電所に続く国内2番目の事業用水力発電所である箱根電灯湯本発電所建設した経験を持つ。大岡にとって豊橋電灯における発電所建設箱根浜松失敗)に続く3か所の施工事例となった。その豊橋電灯水力発電所は、豊橋市街から10キロメートルほど離れた渥美郡高師村(現・豊橋市)の梅田川建設された。発電用水車農業用水車を買収して改造したもの。発電機出力15キロワット電圧2,000ボルト交流発電機置いた発電所1894年3月には完成した。 そして豊橋電灯1894年4月1日開業至った名古屋電灯に続く中部地方2番目、全国でも前年日光電力栃木県)に続いて15番目に開業した電気事業者となった。こうして開業漕ぎつけた豊橋電灯であったが、梅田川発電所水量不足という問題発生した梅田川発電所当時まだ希少な水力発電所愛知県下では第一号)であり、名古屋電灯がいまだ低圧送電方式を採り隣町への配電ができていない中で高圧送電方式用いたことは技術的に画期的であったものの、現実には水量不足のため電灯点火は順調ではなく光量ランプ及ばないことすら多々あった。この光量不足対策として、豊橋電灯では梅田川発電所補助動力となる蒸気機関据え付けて火力発電併用とする選択をした。 大岡豊橋前に手掛けた浜松電灯では水力発電失敗終わった蒸気機関による火力発電開業するまで2年要した豊橋遅れて1895年10月開業)が、豊橋電灯ではあらかじめ蒸気機関設置の手配をしつつ水力発電だけで開業し追って1894年6月蒸気機関設置工事完了した火力併用発電好成績収める点灯申込み増加に向かう。最初決算である6月時点では需要家47戸・点灯143灯、1年後1895年明治28年6月時点では点灯478灯を数えた梅田川での発電失敗終わったことから、豊橋電灯では水力発電適す別の地点調査し豊川上流寒狭川)の開発計画する。しかし工事費が約25万円にのぼることから断念し替わり近郊牟呂用水利用して牟呂村大西(現・豊橋市牟呂大西町)に牟呂発電所新設する方針決定した。この牟呂用水神野新田通ず用水路で、1894年完成したばかりであった1895年5月梅田川発電所設備製作した三吉電機工場との間で、既設設備一式原価で引き取らせた上で新し水車・発電機発注するという契約締結。そして名古屋電灯技師丹羽正道に発電所設計任せ、翌1896年4月牟呂発電所完成させた。こうして発電所梅田川から移したものの、牟呂用水水量不足であり、完成2か月後には蒸気機関設置して火力併用発電所としている。

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創業期の苦心

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 21:10 UTC 版)

中部電力 (1930-1937)」の記事における「創業期の苦心」の解説

開業当初電灯料金高額で、従来照明比べて贅沢品であった発電所には16燭灯換算1000灯の供給力があったが、それに対して1897年時点での成績需要家436戸・灯数755灯に留まった。さならる需要開拓のため配電線延長する必要があったが、創業者3名は資金繰り窮し田中功平近藤重三郎両名杉浦銀蔵に対して向こう6年経営委任するとして岡崎電灯から一旦退いてしまった。委任経営期間は1898年明治31年7月から1904年明治37年12月までであったとはいえ資金的余裕がないのは経営任され杉浦も同じであった。そこで知己の手島鍬司を介して岡崎有数資産家である早川右衛門16代目八丁味噌醸造元)に支援要請その後援を得ることに成功した岡崎電灯創業者対す世評悪く周りから会社敬遠されつつあった中、早川の手形保証がつくと金融が円滑となり、町内全域への配電線架設一挙に進行。翌1899年明治32年)には供給灯数が1,300灯に達して発電所増設要するまでになった。ところが事業拡大最中1899年10月2日経営引き受けていた杉浦死去した。これを受けて岡崎電灯経営養子四郎杉浦銀蔵の名を襲名3代目杉浦銀蔵)した上で引き継いだ3代目銀蔵襲名から半年後に家業呉服商廃業家財道具競売して借財整理し岡崎電灯経営専念することとなった1900年明治33年12月岩津発電所において水車1台と52kW発電機増設完成したこれを機に岡崎町周辺発電所付近に供給拡大している。特に製糸・製布業者からの申し込み多くあり、拡張した供給力もやがて消化して1906年明治39年)には供給灯数2,600灯を数えた電灯需要一方で動力用電力需要小さく1898年岡崎米屋水車かわりに電動精米機取り付けて使用したのが最初事例となった岡崎電灯事業軌道に乗ると、各地から事業見学者増加した1900年代初頭にかけてその水力発電事業模範とされたためであり、岡崎電灯関係者各地事業関与することとなった。その一つが同じ三河地方三河電力(後の東海電気)である。西加茂郡今井磯一郎岡崎電灯関係者杉浦田中近藤の3名と大岡正)が加わって1901年3月設立された会社で、本社岡崎電灯社内置いていた。同社矢作川支流田代川西加茂郡小原村)での発電所建設企画。翌1902年明治35年9月出力200kWの小原発電所完成させ、東春日井郡瀬戸町(現・瀬戸市)で配電始めた

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