創業期・馬車鉄道時代
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「箱根登山鉄道」の記事における「創業期・馬車鉄道時代」の解説
1872年に日本で初めて鉄道路線が開通した後、当時の政府は東京と大阪を結ぶ幹線鉄道の建設を計画していた。当初は中山道に沿ったルートが選定されていたが、1884年から建設工事に入ると当時のトンネル切削などの土木技術が未熟なことから、工事が大幅に遅れることになった。このため、1886年には中山道ルートの建設を一時休止し、東海道に沿ったルートの建設が決定された。 小田原は江戸幕府の開府以来、東海道における宿場町として栄えていた。東海道ルートの建設決定によって、小田原の自治体では「少なくとも小田原には鉄道が来る」という期待を持っていた。ところが、その後明らかになった路線計画では、国府津から御殿場を回って沼津へ抜けるルートとなり、小田原は経由しなかった。当初は箱根山を越えて三島に至るルートも検討されていたが、当時の技術水準では難工事となることが予想されたためである。「幹線ルートから外れることによって近代化から取り残される」と危惧した小田原の有力者は、当時の鉄道局に対して実地測量を求める嘆願を行ったが、受け入れられなかった。 .mw-parser-output .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .trow>.thumbcaption{text-align:center}} 小田原馬車鉄道の時刻表 1900年ごろの湯本駅と馬車鉄道の車両 そこで、小田原の有力者は1887年11月20日に、東海道本線の国府津駅を起点とし、小田原を経由して箱根町湯本にいたる馬車鉄道の敷設を神奈川県に対して請願した。この請願については神奈川県当局は好意的で、1888年2月には敷設許可が得られた。ただし、神奈川県当局が好意的だったのは、足柄県の再興運動が起きないように、「恩を売る」という意味もあったと推測されている。ともあれ、同年2月21日に小田原馬車鉄道が設立され、小田原で薬商を営んでいた吉田義方が初代社長として就任した。同年3月から敷設工事が開始され、9月3日には全線の敷設工事が竣工した。 こうして、1888年10月1日より日本では3番目となる馬車鉄道として、小田原馬車鉄道の営業が開始された。これが後に軌道線となる路線の営業開始である。 しかし、開業後には既存の乗合馬車や人力車の事業者からの反対運動が起きた。軌道上に大きな石を置いたり、馬車に投石するなどの暴力的な行為が繰り返され、乗員・乗客や馬の安全を確保することが難しくなり、1か月ほどの運行休止をせざるを得ない状態に陥った。ところが、折りしも元内閣総理大臣の伊藤博文が静養のため小田原の別荘に滞在していた時で、この騒ぎを知った伊藤は、神奈川県知事に対して運行事業者の保護と暴力行為に対する取締りを強く求めた。これを受けて、1889年からは神奈川県警の警部だった田島正勝が社長に就任、吉田は取締役に退いた。他にも元警察官を数人入社させることで沿線の警備を行うこととした。経営体制の刷新も行われ、ようやく馬車鉄道は平常運行が可能となった。 馬車鉄道の運行によって湯治客の増加がみられるなど、小田原馬車鉄道の開業が小田原や箱根の近代化に対する原動力となったことは確かとみられている。しかし、馬の蹄によって軌道の傷みが発生したり、馬が伝染病に罹患したり、馬の飼料代が高騰するなどの要因もあり、経営的には苦しい状態が続いた。
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