創業期・馬車鉄道時代とは? わかりやすく解説

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創業期・馬車鉄道時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 02:22 UTC 版)

箱根登山鉄道」の記事における「創業期・馬車鉄道時代」の解説

1872年日本初め鉄道路線開通した後、当時政府東京大阪を結ぶ幹線鉄道の建設計画していた。当初中山道沿ったルート選定されていたが、1884年から建設工事に入ると当時トンネル切削などの土木技術未熟なことから、工事大幅に遅れることになったこのため1886年には中山道ルート建設一時休止し東海道沿ったルート建設決定された。 小田原江戸幕府開府以来東海道における宿場町として栄えていた。東海道ルート建設決定によって、小田原自治体では「少なくとも小田原には鉄道が来る」という期待持っていた。ところが、その後明らかになった路線計画では、国府津から御殿場回って沼津抜けルートとなり、小田原経由しなかった。当初箱根山越えて三島に至るルート検討されていたが、当時技術水準では難工事となることが予想されたためである。「幹線ルートか外れることによって近代化から取り残される」と危惧した小田原有力者は、当時鉄道局に対して実地測量求め嘆願行ったが、受け入れられなかった。 .mw-parser-output .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .trow>.thumbcaption{text-align:center}} 小田原馬車鉄道時刻表 1900年ごろの湯本駅馬車鉄道の車両 そこで、小田原有力者1887年11月20日に、東海道本線国府津駅起点とし、小田原経由して箱根町湯本にいたる馬車鉄道敷設神奈川県に対して請願した。この請願については神奈川県当局好意的で、1888年2月には敷設許可得られた。ただし、神奈川県当局好意的だったのは、足柄県再興運動起きないように、「恩を売る」という意味もあったと推測されている。ともあれ同年2月21日小田原馬車鉄道設立され小田原商を営んでいた吉田義方が初代社長として就任した同年3月から敷設工事開始され9月3日には全線敷設工事竣工した。 こうして、1888年10月1日より日本では3番目となる馬車鉄道として、小田原馬車鉄道営業開始された。これが後に軌道線となる路線営業開始である。 しかし、開業後には既存乗合馬車人力車事業者からの反対運動起きた軌道上大きな石を置いたり、馬車投石するなどの暴力的な行為繰り返され乗員乗客や馬の安全を確保することが難しくなり、1か月ほどの運行休止せざるを得ない状態に陥った。ところが、折りしも元内閣総理大臣伊藤博文静養のため小田原別荘滞在していた時で、この騒ぎ知った伊藤は、神奈川県知事に対して運行事業者保護暴力行為対す取締り強く求めた。これを受けて1889年からは神奈川県警警部だった田島正勝社長に就任吉田取締役退いた。他にも元警察官数人入社させることで沿線警備を行うこととした。経営体制刷新行われ、ようやく馬車鉄道平常運行が可能となった馬車鉄道運行によって湯治客の増加みられるなど、小田原馬車鉄道開業小田原箱根近代化対す原動力となったことは確かとみられている。しかし、馬の蹄によって軌道傷み発生したり、馬が伝染病罹患したり、馬の飼料代が高騰するなどの要因もあり、経営的に苦しい状態が続いた

※この「創業期・馬車鉄道時代」の解説は、「箱根登山鉄道」の解説の一部です。
「創業期・馬車鉄道時代」を含む「箱根登山鉄道」の記事については、「箱根登山鉄道」の概要を参照ください。

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