創業期の義済堂の役割
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創業期の義済堂の役割は、前述の別局事務御委任ニ付自ラ権限ヲ請定スル定例によって定められていた。 既存の貸付金を整理・回収して、本局(東京本邸)へと送金する。 整理・回収した貸付金の一部を用いて、困窮する士族(旧家臣)の就業資金に充てる。 一般民を対象にした貸金も実施する。 岩国で産する紙の売り捌き事業も扱う。 送金事業以外の事業は、整理・回収した貸金に得た資金のうち累積額が5万円に達しない部分を活用して実施された。(5万円を義済堂内の内部留保資金(存留金と称した)とし、残りを本局へ送金) その後、1876年(明治9年)8月に明治政府が定めた金禄公債証書発行定例により、扶禄制度を完全廃止する事が確定的となり、対策として外社則(1878年(明治11年)8月8日)や奨業所仮規則(1878年(明治11年)10月31日)を定めるなどし、士族への就業資金の融通以外に授産事業にも積極的に乗り出すようになった。 具体的には、以下の通り。 明治政府から支給された金禄公債を義済堂に預託させ、その公債を質貸しの形で資金運用して得られた運用益の一部を、公債を預託した士族(外社員と称した)の生業資金に充てる。 外社員が、義済堂の建てた奨業所もしくは自宅にて製作した品を、義済堂が一括買い上げして販売を行なう。 1878年(明治11年)10月25日に紡績仮規則を定め、士族女性への織物技術の授産を開始した。 義済堂の企業規模は、創業後1年を経過した時点で 従業員:114人(本員:22、有職外員:32、その他:60) 建屋:6棟、土蔵:7棟(大阪の建屋:11棟、土蔵:6棟は含まず) であった。(当時の岩国で、もっとも大きな企業体であったとされる)
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