創業期から戦時統合まで
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「岩手県北自動車」の記事における「創業期から戦時統合まで」の解説
岩手県に初めてバスが走ったのは、1912年に盛岡と宮古を結んだ盛宮自動車で、その前身は1906年からこの区間に乗合馬車を運行していた盛宮馬車である。徒歩で約3日かかっていたものが馬車で12時間に、さらにバスとなったことで8時間に短縮されたという。バス輸送の黎明期において100kmに及ぶ長距離運転を行っていたことが特筆される。イタリア製の20人乗りの大型自動車を4台導入していたが、当時の宮古街道はかなりの悪路でとても大型自動車の運行ができるような道路ではなく、1916年には新渡戸稲造を乗せたバスが転覆するという事故も発生している。これらのことから、盛宮自動車では車両を小型化の上、山田線開通まで運行を続けていた。 その後、岩泉・宮古・軽米地区にバス事業者が設立され運行を開始するが、第二次世界大戦に入るとガソリン規制が行なわれたため、これらの中小事業者の経営を圧迫した。さらに1942年には陸上交通統制の通牒が出されることになり、岩手県は大きく4ブロックに分けられ、太平洋沿岸の岩手県北部は岩手県北自動車(県北バス)に統合されることとなった。こうして、1943年10月13日に岩手県北自動車が設立された。この時の本社所在地は岩泉だった。 統合間もない1944年、沼宮内と平館を結ぶ路線は戦時統制強化要請勧告に基づき、省営自動車(省営バス)に譲渡されることとなった。その他の路線も大部分を省営自動車に移管するように求められていたが、戦時中の移管は一部にとどまっている。 しかし、第二次世界大戦が終結した後の1946年に、省営バスは戦時中の約束に従って路線の譲渡を県北バスに対し要求した。県北バスではやむなく廃止補償金と引き換えにこれを受け入れることとし、1947年4月に久慈近辺の7路線を、同年12月には岩泉近辺の各路線を省営バスに移管した。このため、県北バスの路線網は本社所在地の岩泉には走らず、伊保内・沼宮内・宮古の各地区に分断されることになった。しかし1948年からは新たな地区へ路線網を広げ、1955年までには野田、小本、重茂(おもえ)、平館、盛岡、一戸、山田の各地に拠点を設置することとなった。県北バスの営業エリアは当時から過疎地と呼ばれる地区が多く、新規路線の一部はスクールバスと兼用したものが目立った。
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創業期から戦時統合まで
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「岩手県交通」の記事における「創業期から戦時統合まで」の解説
岩手県に初めてバスが走ったのは、1912年に盛岡と宮古を結んだ盛宮自動車である。岩手県交通の路線として現在運行されているものとしては、1918年に盛岡市内の路線で営業を開始した盛岡自動車とされている。この後、小規模な事業者が次々と設立され、1928年には盛岡のバス事業者だけで22社に上っている。 第二次世界大戦に入るとガソリン規制が行われたため、これらの中小事業者の経営を圧迫した。さらに1942年には陸上交通統制の通牒が出され、岩手県は大きく4ブロックに分けられることになった。太平洋沿岸北部が岩手県北自動車(県北バス)、太平洋沿岸南部は岩手東部乗合自動車、江刺以南の県南部は岩手県南自動車、県中心部の盛岡近辺は岩手中央自動車に統合されることになった。なお、花巻電鉄は社名のとおり鉄道事業を行っていたため、バス事業の統合からは除外されている。
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