創業期から終戦まで
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京阪宇治交通のルーツとなるのは、1922年(大正11年)4月14日に創業の宇治田原自動車商会であった。これは宇治田原村(当時)の発展を目的としたもので、5人乗りフォード2台で宇治と岩山を1日6往復運行した。1926年に宇治川電力大峯ダムが竣工すると、宇治川ラインと称する観光コースが登場することとなった。同社では宇治からのバスでこの観光コースの輸送を行なうべく、1929年10月に宇治川線を開業した。 しかし、1935年(昭和10年)の豪雨では社屋流失などの被害を受け、元来赤字経営だったものがさらに経営悪化することとなり、外部から社長を迎え入れた上で株式会社に改組した。宇治田原自動車の新社長に就任した細谷福太郎は、運賃値下げや観光客の誘致、さらに沿線観光開発などを進めることとなり、同社が観光輸送中心に発展する方向性を確立した。 戦時体制に入ると、沿線に傷痍軍人の療養所や火薬工場などの軍事施設があったことから、輸送人員は増加したものの、経営的には苦しい状態となった。戦局が悪化すると、物資不足からバスの整備も満足に出来ず、1往復するごとにバスを修理するような有様で、1945年の終戦を迎えることになった。
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創業期から終戦まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 14:27 UTC 版)
京阪バスのルーツとなるのは、1922年7月20日に創業し、11台のハイヤーで営業を開始した桃山自動車であった。これは桃山御陵(明治天皇陵)への参拝客輸送を目的としたものであった。その後、京阪電気鉄道との連携を強め、1924年に京阪自動車と改称、1928年には京阪電気鉄道(京阪電鉄)の傘下に入ることになった。その後、1930年までに6路線の買収及び新設を行なった。一方、1928年には京津線沿線において、鉄道擁護という目的で、京阪電鉄により京津自動車が設立された。同社は山科自動車を合併した後の1930年6月に京阪自動車に合併されている。これより少し前の1930年2月には、琵琶湖航路を運行していた太湖汽船のバス部門を合併している。 一方、大阪府では1924年に設立された城北自動車商会が、1928年に枚方までエリアを拡大しており、さらに延長を計画していた。京阪電鉄はこれに対応すべく、1928年6月に城北自動車商会の全株式を取得、1930年には京阪自動車運輸が母体となって新京阪鉄道のバス部門を継承した上で、1930年9月に城北自動車商会と合併した。さらに、1931年4月1日に京阪自動車は京阪自動車運輸の事業を全て継承、滋賀県から大阪府までの京阪沿線一体を営業エリアとするバス事業者が成立したのである。 1929年には、1928年に設立され京都市内の遊覧バス事業を行なっていた、京都遊覧乗合自動車の営業権を譲り受けた上で、京都名所遊覧乗合自動車を設立した。これが京都定期観光バスの始まりで、当初は12人乗りの新型バス「シボレー」10台で営業を行なっていた。その後、順次コース内容の充実を図り、車両面でもマイク付展望車「スチュードベーカー」を1938年に導入するなど、積極的な展開を行なった。 しかし、戦時体制に入ると遊覧事業は燃料規制の対象となったことから、京都名所遊覧乗合自動車はコース改変の上、京都聖跡巡拝自動車に社名変更した。戦時下においても、戦勝祈願などについては認められたからである。しかし、これも長く続かず、1940年には遊覧バス休止の通牒があり、同年9月に京阪自動車に合併となった。 戦時中は他社と同様、営業状態は苦しい状況であった。1941年には全車両が代用燃料に切り替えられ、物資不足から稼動可能なバスの台数も減少し、1945年の終戦時点では、在籍116台のうち、稼動可能な車両は73台だけとなっていた。また、運転士が徴兵されたことから休職者も多く、運行キロは最盛期の8%程度しかなかった。
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