軌道に乗る事業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 15:13 UTC 版)
「豊橋電気 (1894-1921)」の記事における「軌道に乗る事業」の解説
創業期の点灯規則によると、供給する白熱電灯の明るさ(燭光数)には8燭灯・10燭灯・16燭灯などがあり、燭光数と点灯時間(12時灯・3時灯・終夜灯の3種)によって料金が定められていた。月額料金は10燭終夜灯の場合90銭(会社貸出の電球の場合17銭加算)、16燭終夜灯の場合1円30銭(同20銭加算)で、当時は高級品として扱われた。初期の主要な供給先は豊橋に駐屯していた歩兵第18連隊であり、やがて官庁や商店街でも電灯の利用が拡大、一般家庭でも普及していった。 設立3年目の1896年上期に1万円の増資を、次いで翌1897年(明治30年)下期に倍額増資をそれぞれ実施し、資本金を短期間で5万円へと引き上げた。これらは配電設備拡張を目的とする増資であった。供給の拡張につれて電灯料収入も増加傾向となり、設立以来の赤字経営が1897年上期黒字化に成功、同年下期には初めての配当にも漕ぎつけた。開業6年目の1899年(明治32年)下期には電灯数が1000灯に到達。1900年(明治33年)下期には1200灯を超えたが、以後しばらく需要家数200戸前後・灯数1200灯台のまま伸びが停滞した。 供給成績が急拡大するのは日露戦争後のことである。戦後の好況によって会社・商店・役所から一般家庭に至るまで幅広く電灯を求める動きが拡大するとともに、工業向けの電力需要も増加したことによる。その中の1906年(明治39年)11月15日、社名を豊橋電灯から「豊橋電気株式会社」へと改め、営業目的に動力用電力の販売を加えた。また牟呂発電所建設以降は2度にわたって同発電所を増設し供給力を当初の30キロワットから80キロワットへと引き上げることで需要増に対処してきていたが、需要急増に対応すべく南設楽郡作手村(現・新城市)における新水力発電所の建設を決定した。その建設費調達のため豊橋電気では1907年(明治40年)までに資本金を50万円へと引き上げた。この増資は2分割で実施されており、社名変更と同時に10万円の増資が、次いで1907年9月に35万円の増資がそれぞれ決議されている。 新発電所建設は突貫工事で進められ、1908年(明治41年)5月に見代発電所として完成した。豊川支流巴川の水力を利用するもので、出力は250キロワット(1910年の増設後は360キロワット)。同時に豊橋郊外の下地町に変電所を新設し、発電所と変電所を高圧送電線で結び変電所にて降圧した上で配電する、という供給方式を社内で初めて整備した。見代発電所の建設にあわせて1907年10月に電灯料金を引き下げた(16燭終夜灯月額90銭など)こともあり、完成直後の1908年6月末時点における電灯数は5221灯と半年前の1808灯から一挙に3倍近くの増加をみた。さらに1908年上期から動力用電力の供給も開始し、精米・製材・製粉・揚水などの用途で電動機の利用を増加させていった。
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