小金牧
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小金牧(こがねまき)は、江戸幕府が現在の千葉県北西部の台地上に軍馬育成のため設置した放牧場である。
注釈
- ^ 『牧跡』の推定は約1キロメートル東で掲載地図と矛盾、上野牧の一部が十余二の一部である柏市西原になったとする記載があり、公文書を含めた信頼できる資料に反する。
- ^ 2012年現在、県教委(ふさの国)では下野牧の土手としているが、中野牧の一部が初富となったとする公文書を含めた明治期の資料、『享保小金原御場絵図』等の享保期の資料に反する。
- ^ 千葉大園芸学部下の道、常盤平駅設置後の道等、昭和期の道路を古道とするなど杜撰な編集が多い。野馬奉行屋敷が水戸街道から外れている。牧北部、水戸家鷹場設置前の初期の範囲と、南部、新田開発・牧縮小後の後期の範囲が混在、野馬土手の見落としも多く、他の資料で確認できる内容以外は疑わしく、資料としての価値はない。
- ^ 事務局長は千葉県立高校の生物の教諭。県内で小中学校への出張授業を行う生物1科目の教諭の登録数は、地歴と公民の2教科合計の2倍弱で化学についで多く(2011年度、県教委)、SPPの実施校数では、千葉県公立高校の生物1科目>他のどの都道府県の公私立高校の理科と数学の2教科合計(2008年度、JST)で、公立高校の生物の教育水準が高いと考えられる。傍証ではあるが、記事の信憑性は高いと考えられる。制約のためリンク保留。
参照
- ^ 大谷貞夫「小金牧」(『鎌ヶ谷市史 中巻』第三編第一章、1997年、のち『江戸幕府の直営牧』岩田書院、2009年に所収)。
- ^ a b c d e f g h i j 千葉県立図書館の「菜の花ライブラリー・千葉県デジタルアーカイヴ」より選択
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am 国立国会図書館蔵、国立国会図書館デジタルコレクションより検索
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『東葛飾郡誌』第二十章第六節小ヶ金原志
- ^ 松戸市誌編さん委員会編『松戸市史 中巻(近世編)』松戸市、1978年。
- ^ 三橋は1869年(明治2)年生、1956(昭和31)年没であり、存命中の掲載である。三橋家は牧士を務めた家柄の一つで、鎌ヶ谷市中央公民館は別名三橋記念館であることも、地元での活動を裏付ける。大谷貞夫の研究も「三橋家文書」に基づく。
- ^ a b 外題に『成田名所図会』、内題に『成田参詣記』とある。『総常日記』の一部、『始観執駒記』を収録。
- ^ a b c 早稲田大学図書館蔵・早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」
- ^ 明治期の編集で、1858年『成田名所図会』の復刻ではない。
- ^ 千葉県文書館所蔵「綿貫家文書」
- ^ a b c d e f g h i 『国史跡下総小金中野牧跡保存管理計画書(案)]』はリンク切れのため同教育委員会『[1] 国史跡下総小金中野牧跡保存整備基本設計(案)]』を代替
- ^ a b c d e 千葉県史料研究財団編『千葉県の歴史 通史編 近世1』(千葉県、2007年)。
- ^ 酒々井町史編さん委員会編『酒々井町史 通史編上』酒々井町、1987年。なお該当箇所は酒々井町ホームページ「観光スポット(野馬牧場と牧士)」にて閲覧できる
- ^ a b c d e f 『東葛飾郡誌』第十六章名所旧跡第三節旧跡城址墳墓
- ^ a b 『小金牧を歩く』崙書房2003年8月 ISBN 978-4845510948
- ^ 第三編東葛飾郡二十二小金町
- ^ 大谷貞夫「野馬奉行考」(『國學院雑誌』88巻4号、1987年)、のち『江戸幕府の直営牧』(岩田書院、2009年)に所収
- ^ a b c d e 徳川実紀
- ^ a b c d 柏市史、インターネットでは未公開
- ^ a b 大谷貞夫「金ヶ作陣屋考」(『鎌ヶ谷市史研究』創刊号、1988年、のち『江戸幕府の直営牧』岩田書院、2009年に所収)。
- ^ 白井豊「享保期の下総台地西部における林畑開発の意義」(『地理誌叢』45(2)、2004年)
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- ^ 大谷貞夫「野馬奉行考」(『國學院雑誌』88巻4号、1987年)および同「享保期の下総小金牧について」(『國學院雑誌』89巻11号、1988年)、のち『江戸幕府の直営牧』(岩田書院、2009年)に所収
- ^ 『広報しろい』2008年5月15日号
- ^ 白井豊「下総台地西部の牧とその周辺における薪炭林化」(『歴史地理学』49(2)、2007年)。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 迅速測図、農業環境技術研究所の歴史的農業環境閲覧システムで閲覧可能、年代は図中の記録による。
- ^ a b c d e f g h i j k 国立国会図書館蔵、国立国会図書館・電子図書館 Archived 2007年4月30日, at the Wayback Machine.「貴重書画像データベース」
- ^ 山梨県立博物館「富士山」
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『千葉縣東葛飾郡誌』
- ^ 該当記事
- ^ 中村哲夫『千葉の建築探訪』崙書房出版、2004年、40頁、ISBN 4-8455-1100-2
- ^ a b 松戸市、野馬土手については「市内紹介・市内散歩・文化財マップ」、ナポレオン三世の馬については「市の紹介・公共施設ガイド・博物館歴史館・戸定歴史館・デジタルアーカイヴ」
- ^ 直木三十五『日本剣豪列伝』
- ^ 宝井馬琴講演『寛永御前仕合』
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa 国立公文書館国立公文書館デジタルアーカイブより検索、閲覧可能
- ^ 原直史「慶応二年開墾奨励令と房総農村」(吉田伸之・渡辺尚志編『近世房総地域史研究』東京大学出版会、1993年)。嘆願書は『酒々井町史 史料集四(佐倉牧関係三)』に掲載(慶応4年「御用留」)。
- ^ 文書『東京府下民部省開墾局ニ属ス』『下総国三牧其他不毛地開墾民部省開墾局ニ属ス』『北島五位ニ開墾局知事ヲ命ス』(すべて明治2年5月3日)等
- ^ a b c 国立公文書館アジア歴史資料データベース
- ^ 『牧牛馬掛ヲ開墾局ニ属ス』
- ^ 『東京大学校教授英人フエントン蝶類捕集ノ為メ小金野ニ赴ク』『予備門訓導フエントン上下総小金野ヘ旅行』
- ^ 国立国会図書館リサーチ・ナビによると、三田村鳶魚遺稿『明治大正人物月旦』に「岩瀬謙超-一杯機嫌で倶舎唯識」とする章があるが詳細は不明。
- ^ 『衆議院議員田中正造外一名提出小金原開墾地ノ所有権ヲ奪ヒタル件ニ関スル質問ニ対シ農商務大臣答弁書衆議院ヘ回付ノ件』、1902(明治35年)『衆議院議員高津雅雄外四名提出小金原開鑿ニ関スル質問ニ対シ内務大蔵両大臣答弁書衆議院ヘ回付ノ件』・『衆議院送付千葉県東葛飾郡十余二村内田市良衛門外三百六十七名提出下総国旧牧開墾地ニ関スル請願ノ件』
- ^ 松戸市浅間山(浅間神社境内)の極相林(第1報) : 群落構造
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 千葉県または千葉県教育委員会ホームページより「ふさの国文化財ナビゲーション」。当初、野馬土手を文化財としておらず、多くが未記載。遺跡発掘報告によるため、記載された土手の大半は現存せず、位置のずれも大きいが、地名調べには有用。掲載地図が古い点も有用、県教委が未把握の土手も確認できる場合、この脚注で示す。
- ^ 『松戸市史』『柏市史』『船橋市史』
- ^ a b 国立公文書館デジタルアーカイブ『印旛県下下総国小金佐倉ノ牧場ニ村名ヲ設ク』
- ^ 『小金原開墾之不始末』、研究者も青木更吉が著作で『「東京新田」を歩く』、菊池利夫が論文で「いわゆる東京新田」という表記を用いている。
- ^ 雨宮龍太郎『北総の猪垣根』
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 国土地理院地図・空中写真閲覧サービス(旧・国土変遷アーカイヴ)
- ^ a b 野田市役所より「野田市の紹介・野田の歴史」か「文化財」を選択
- ^ a b c d e 野田市立図書館より「電子資料室」の「企画一覧」か「紹介資料一覧」を選択、後者に『寛文5年野田町絵図』
- ^ 千葉県立関宿城博物館より「展示・デジタルミュージアム・利根川東遷と関宿藩・はじめに」
- ^ 千葉県教育委員会発行・千葉県教育振興財団編集
- ^ 東京国立博物館「調査研究・情報アーカイヴ」より検索、画像は閲覧可能、小さな文字判読は不可能、詳細は東京美術・児玉幸多監修解説『五街道分間延絵図関宿通多功道見取絵図〈第1巻〉』ISBN 9784808706715 参照
- ^ a b c d e f g h 該当地域には地域の地理歴史に関心を持ちホームページで小金牧に触れている小学校が多い。少なくとも、この脚注数が該当する学校数を示す。承諾等の制約のため、リンク保留。
- ^ a b [http://www.lib.pref.ibaraki.jp/home/ 茨城県立図書館」・「茨城県立図書館デジタルライブラリー」『駅路鞭影記』には写本により多少の差異がある。
- ^ 原典不詳、著作権上詳細略
- ^ a b c d e f g h i j k l 『柏市文化財マップ』インターネットでは未公開
- ^ 船橋市図書館
- ^ a b 『広報かしわ』平成15年1月1日号
- ^ a b c d e f 柏市役所内「歴史・文化財」より「柏の歴史」または「柏のむかしばなし」より該当項目選択
- ^ a b c d e 流山市・商工課・商政観光係・流山100か所めぐり、旧ページの地図は2012年削除
- ^ a b 千葉県商工労働部観光課
- ^ a b c 柏市史に一部収録
- ^ 慶應義塾大学蔵、インターネットで存在が確認できるが、制約があり、ウィキペディアの編集方針変更までリンク保留
- ^ 茨城県立歴史館
- ^ 巻の上二十一
- ^ 国立歴史民俗博物館データベースより選択・検索
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab グーグルストリートビューで確認可能
- ^ 松下村塾蔵
- ^ 渋沢栄一『徳川慶喜公伝』巻4第33章水戸退隠及静岡移住
- ^ 摘水軒記念文化振興財団より「財団沿革」
- ^ a b c 『千葉県内碑石一覧』国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 安田初雄「近世における本邦の置付放牧に関する地理的研究(その1)」『福島大学学芸学部論集 社会科学』 1958年 9-1号 p.25-54, hdl:10270/1986, 福島大学学芸学部
- ^ 相馬氏等、千葉支族の家紋
- ^ a b 地形図
- ^ a b c 『小金牧 野馬土手は泣いている』崙書房2001年5月 ISBN 978-4845510795
- ^ 柏市ホームページ・かしわフォトニュース・平成28年 『次世代に伝える地域文化、かつての名産・豊四季の木釘』
- ^ a b c d 柏市市内遺跡発掘調査報告書
- ^ a b c 流山市、報告書は「各課所属一覧・博物館TOP・発掘調査」
- ^ 南柏駅西口前にも西口商店街により掲示
- ^ 地元の地理歴史に関する教育活動の実施を示す。現ウィキペディアの編集方針に従いリンク保留。
- ^ 柏市の報告書の新富町一丁目427は一般の住所表記ではなく所在地、豊四季字吉野沢427
- ^ 掲載しているホームページもあるが、制約のためリンク保留
- ^ a b 2012年現在、同高校のホームページに小金牧に関する記述はない。
- ^ 同校ホームページには野馬土手等の記述はなく、平成26年10月までのホームページや校外から見える掲示では、校名の葛の字体が混在しこの範囲では、地域の歴史文化に対する関心はうかがえない。
- ^ 広報かしわ平成15年1月1日
- ^ 営利関係と制約のため、リンク保留
- ^ 出典提示なしの掲載のため、著作権上、書籍ならば、地図を含む当記事の内容を三井不動産が承認したと見なされる。
- ^ 早稲田大学史資料センター
- ^ 国土交通省国土政策局ウェブマッピングシステム
- ^ 一次資料である綿貫家文書も所有しているがインターネット上では未公開
- ^ 科学研究費助成事業データベースより概要の閲覧が可能
- ^ a b 下総台地西部の牧とその周辺における薪炭林化(白井豊 2007)
- ^ 掲載地図は低水準だが古文書等の掲載資料は有用。低水準の根拠は他の脚注参照。
- ^ p431
- ^ 中部町村誌田中村誌教育
- ^ 千葉県教育振興財団文化財センター
- ^ 下総台地における牧景観の特徴とその変容過程
- ^ a b 千葉県立関宿博物館『常総を旅する人々』
- ^ 埼玉県立図書館蔵、埼玉県立図書館「デジタルライブラリー(貴重書デジタル画像)・貴重書」より選択、五その1絵図2
- ^ 巻の中参拾四
- ^ a b c 広報しろい2012年8月15日号
- ^ a b c 千葉県発行『千葉県の歴史』通史編2
- ^ 澤護(敬愛大学)2007年『S.カズヌーブに関する若干の資料Des Documents sur S. Cazeneuve』国立情報学研究所サイニイより検索、閲覧可能
- ^ 『川口家文書の研究』科研費補助金データベースより検索、概要が閲覧可能
- ^ 鎌ヶ谷市郷土資料館のページ
- ^ 埼玉県立図書館「デジタルライブラリー」より選択
- ^ a b c d 2012年6月、県教委「ふさの国」では土手全体残存の表記
- ^ ふれあいGASパーク・ふれあい交差点・地名町名の由来
- ^ a b c d e f g 『寛政御狩場御夜勢子立切内明細図』
- ^ 千葉県立柏南高等学校ホームページ
- ^ 『「紙敷 石みやの森」保全育成事業市民活動助成事業-松戸市』『事業計画書-松戸市』 インターネットで閲覧可能
- ^ 千葉県・法令集
- ^ 鎌ヶ谷市・統計かまがや
- ^ a b c d e 白井市より「白井市について・市の歴史・文化財」または「広報しろい」を選択、アドレスは頻繁に変更
- ^ 鎌ヶ谷市より「生涯学習・文化にふれよう・鎌ヶ谷市の文化財」を選択
- ^ 馬牧の目的
- ^ 『吉田松陰全集、第10巻、宮部鼎蔵、東北遊日記』題は編集者による仮題である
- ^ 『東葛飾郡誌』第二十章拾録第一節行幸行啓志一行幸志
- ^ a b c 船橋市立西図書館蔵、2012年、インターネットでは閲覧不可
- ^ 平成23年1月15日号
- ^ 本文では「区域ヲ定ム」
- ^ 船橋市ホームページ船橋市立大穴中学校
- ^ 江戸、駿河、嶺岡牧、京都、佐渡、長崎とともに幕府直営の御薬園があった。(大石学「御薬園と養生所」竹内誠監修『ビジュアル・ワイド 江戸時代館』小学館、2002年12月。ISBN 4-09-623021-9)
- ^ 太左衛門と記載
- ^ a b 2010年撮影のGoogle street viewで確認可能
- ^ a b 陸軍士官学校地図、東邦大学メディアネットセンターTOHO Academic Archivesより旧日本陸軍測量図、制約のため、資料への直接リンクは保留
- ^ 前述の地元民による開墾ができた事とともに千葉市公式サイト内「千葉市の文化財」に画像と、大半は『千葉郡誌』の再引用の資料がある。
- ^ 船橋市より「坪井の歴史と文化財」
- ^ 金子是久, 三村啓太, 天野誠 ほか、「千葉県白井市における管理形態の異なる草地の植物相」 『景観生態学』 2009年 14巻 2号 p.163-176, doi:10.5738/jale.14.163, 日本景観生態学会
中野牧
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中野牧(なかのまき)は現在の松戸・柏・鎌ケ谷・白井の各市におよび、初富・五香・六実と三分して開墾された事、一本椚牧を吸収した事が示すように、享保の縮小後も、小金牧中、最大の牧であった。縮小前の牧の範囲については、『宮本2012』にあるが、図によって初期の牧の範囲には多少の相違があり、初期の範囲の厳密な特定の難しさを示す。 幕府は中野牧の馬を将軍の乗馬に用い、将軍が鹿狩を行い、幕末にフランスから将軍に贈られたナポレオン三世の馬を飼育するほど、中野牧を最重視した。享保以降、金ヶ作陣屋が置かれ、下野牧とともに幕府直轄となった(後述)。松戸市小金原は中野牧のごく一部である。将軍の鹿狩のため、国立公文書館等に多くの資料がある。 『旧事考』に、縦は東で3里、西で2里、横1里、牡牝約300、捕駒の地が中澤、別に、俗に日暮という幕府騎乗の牧があり、牡牝約300、捕駒の地は金ヶ作とある。 『日本地誌提要』に、下野牧とまとめて、東西凡28町10間、南北凡3里18町42間とある。 1687(貞亨4)年、松尾芭蕉『鹿島詣(鹿島紀行)』に「やはたという里を過ぐれば、かまがひの原という廣き野あり(略)いとあはれ也(略)野の駒所得がをにむれありくまたあはれ也」とあり、日暮れ頃、布佐に着いた事から、市川市八幡から下野牧と中野牧の間、厳密には吸収される前の一本椚牧を通り、印西牧を通過したことになる。この日の句に、野をよんだ曾良の「花の秋草に食飽野馬かな」がある。 1765(明和2)年、『房総叢書』収録『金ケさく紀行』は、牧監の命で牧馬払下げの証明に関し金ヶ作を訪れた記録で、船橋から市川大野・大町新田を経て金ヶ作に至る事、牧師が日暮に住む事等が記されている。 1805(文化2)年、秋里籬島『木曽路名所図会』に鎌ヶ谷大仏と、近くの野馬土手と似た土塁と馬がある。 1814(文化11)年、『江戸叢書』収録の釈敬順『十方庵遊歴雑記 江戸惣鹿子名所大全』に、木下の路筋は鎌ヶ谷より白井までのニ里余の間、皆小金原の続きで、馬が何匹もいて、広い野のため、道がいくつあるか知らない旨記され、『木曽路名所図会』とよく一致する。 1825(文政8)年、渡辺崋山は『崋山全集』収録『四州眞景紀行之部』に「釜谷原放牧、原縦四十里横二里或は一里と云、即小金に続くどぞ」と記し、スケッチを残した。 1830(文政13)年、『東都近郊図』には、栗ヶ沢集落の東に「牧アリ」とある。 1845(弘化2)年、前掲『江戸近郊図』には、金ヶ作に「野馬役所」と「牧」の文字、また、根木内近くに「小金原新田」の集落を示す記載があり、小金牧のごく一部である狭義の小金原の地名の存在を示す。鎌谷近くに「カマカハラ」の文字、道ノ辺近くに「一本椚」の集落を示す記載がある。 1852(嘉永5)年、歌川国芳は、あくまで頼朝の狩として、『源頼朝公富士之嶺牧狩之図』を描いており、前述の川柳絵も中野牧を描いた可能性が高い。前述『嘉陵紀行』の日ぐらし山・五助原・白子は、御囲場があり三方が谷津の日暮・字五助・捕込のあった白子に当たる。谷津と今も一部残る仕切土手によって中野牧内が分けられていた事を示す。 1867(慶応3)年、ナポレオン三世の馬の飼育については該当項目参照。馬の到着前から、現白井市の名主で中野牧の目付牧士川上次郎右衛門ほか30人が横浜に行き、フランス人から飼育伝習を受けたと、白井市『広報しろい』に、5月15日に、野馬奉行綿貫夏右衛門と牧士、ほかに、別当という馬係26人に、伝習御用が命じられたと、『千葉県の歴史』にある。牧士らは、5月18日に横浜に行き、27日に戻って来た時には全員が洋装になっていた。馬の横浜到着は新暦5月29日である。7月27日(旧6月26日)、江戸城大手門内下乗橋外において贈呈式が行われた。伝習は半年に及んだため、牧士は何度か交代している。片桐一男(青山学院大学)は、中野牧・下野牧の牧士によるアラビア馬の引受けと管理を記している。御勘定奉行『亜刺比亜馬小金表江率移候義ニ付申上置候書付』、1867(慶応3)年7月小金原続村々『乍恐以書付奉願上候(外国之馬茂小金牧江放被遊候風聞之儀ニ付)』の文書が残る。 1868(慶応4)年、『千葉県の歴史』『広報しろい』によると、1月22日と3月の2回に分けて、ナポレオン三世の馬26頭のうち、23頭が江戸から五助木戸御囲、正式には中野牧厩詰用所に移された。26頭の内訳は、1888年、農商務省農務局『輸入種牛馬系統取調書』によると、牡11頭・牝15頭、2頭は将軍の馬として江戸城に留められ、移送前か後かは不明だが、2月18日に1頭が病死したため、3月に中野牧厩詰用所での飼育が開始された馬は23頭である。馬は高木村に建てられた厩舎で、外国人2名の下、すべて洋式で飼育されたと三橋彌が記している。中野牧厩詰用所には、囲い場、厩、詰所があった。五助木戸御囲とあり、五助木戸の北側は享保期に新田となっていたため該当しない。東は五香を経て五香六実村さらに高木村になったが、御囲ではなく該当しない。西は金ヶ作で該当する可能性は低い。南の区画は、除外する要因がなく、字御立場の南は字御囲で、厩舎の場所として最も整合性が高い。現在の陸上自衛隊五香駐屯地で、駐屯地内を横切る松戸・鎌ヶ谷市境にあった道付近の可能性が最も高い。4月には、襲撃に遭い、アラビア馬の一部と洋式馬具が奪われたが、4月28日には無事な馬の一部、牡10頭が江戸に収容された。元々、牡馬が11頭のため、略奪はごく一部で、また、中野牧での飼育もこの頃までである。
※この「中野牧」の解説は、「小金牧」の解説の一部です。
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