到着と幕府による飼育とは? わかりやすく解説

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到着と幕府による飼育

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 05:21 UTC 版)

ナポレオン三世の馬」の記事における「到着と幕府による飼育」の解説

1863年文久3年)、公使蚕紙寄贈云々勘定奉行記録が残る。 1865年3月元治2年2月最初蚕紙贈られ9月(旧8月)には次の蚕紙を送る旨、幕府側からフランス側通知10月19日(旧8月30日)に発送され翌年ロッシュ自身所有アラビア馬1頭を将軍進呈する伝えている、と外務省資料にある。 1867年慶応3年)、馬の到着前から、現白井市名主目付牧士川上次郎右衛門ほか30人横浜行きフランス人から飼育伝習受けたと、白井市資料にある。 5月15日綿貫右衛門牧士、ほかに、別当という馬係26人に、伝習御用命じられたと、『千葉県の歴史』にある。牧士らは、5月18日横浜行き27日戻って来た時には全員洋装になっていた。 新暦5月29日、馬はアルジェリアからフランス軍事顧問団本隊より後、横浜到着と、澤護(敬愛大学)は、論文記している。輸送担当はシモン・カズヌーブで、社会情勢分析した上で文久慶応(『輸入種牛系統取調書』の1860年1866年)の誤りで、文久年間送付説を明快に否定している。当時技術では、蚕卵送付は夏には行えず、澤に従えば1866年初頭フランス着で、8月20日まで家茂死去も秘されており、馬の送り先家茂である。送付時期についてのニ説は後述する。Meron Medzini "DURING THE CLOSING YEARS OF THE TOKUGAWA REGIME"(Harvard College 1971)では、士官2人に、フランス宮廷から乗馬指導者instructor兼ねた年老いた馬師riding master同行してきたとある。 馬の到着を受け、老中小笠原長行7月27日(旧6月26日)に江戸城大手門下乗外において寄贈を受ける旨ロッシュ伝えた。馬はフランス人14余り横浜から乗馬し江戸城届けられた。日本仏学史学界では、「奥祐筆留め慶応3年6月26日の条」と原典示し贈呈式前に雉子橋付近厩舎に一旦収容された、としている。 1867年7月27日慶応3年6月26日)、大手門下乗外で贈呈式が行われ、フランス人一等士官1名に大小一腰紅白縮緬五端、兵士4名に洋銀200贈られた。2頭は将軍の馬として召され残り新橋馬小屋運ばれ、さらに翌日牧士フランス人と共に乗馬し横浜戻り翌年まで飼育を続けた後、馬は小金牧移された。馬は26頭で、駒10、駄15、控1である。『輸入種牛系統取調書』と照合すると、駒は牡、駄は牝を示すと考えられる。控1の意味不明だが、馬が25頭とする説の元になった可能性が高い。残り24頭が小金牧に来た事になる。贈呈式後、馬が収容されたのは、横浜太田陣屋で、26頭の馬は5班分けられ1班1人ずつの牧士と1頭に1人ずつの別当がつき、飼育方法伝習訓練が行われた。『千葉県の歴史』の原文のまま人名を示すと、フランス関係者にはシャノアン・デジャン、馬教師には、ダイクール・エッサ、プリガッシュ・カズヌプなどがいた。伝習半年及んだため、牧士何度交代している。 1867年慶応3年7月小金原々『乍恐以書付奉願上候(外国馬茂小金牧江放被遊候風聞之儀ニ付)』があり、小金牧アラビア馬が来た事が確認できる御勘定奉行亜刺比亜小金表江率移候義ニ付申上置書付』との資料もある。片桐一男青山学院大学)は、中野牧下野牧牧士アラビア馬引受け管理したとしている。原資料が同じと考えられるが、白井市資料一致する。『北海道開拓記念館調査報告』にも函館大経の話として、下総牧に御囲牧を設け馬を飼育したとの記述があるが、馬は三十六頭と記されている。 1868年慶応4年)、馬は2度分けて小金牧移された。1度目は、1月4日神田橋御門外の騎兵屯所、後、1月22日五助木戸御囲正式には「中野牧厩詰用所」へ移された。新たに設けられ中野牧厩詰用所には囲い場、厩、詰所があった。『千葉県の歴史』には「放された」とあるが、野馬として放牧されたとすると、厩の存在西洋式飼育方法矛盾する五助木戸五香駅の東に当り、厩詰用所現在の陸上自衛隊五香駐屯地付近推定される詳細小金牧参照2月18日に1頭が病死した。2度目移送は、3月5日で、1度目同様に行われた。『千葉縣東葛飾郡誌』に、アラビア馬20頭が慶應期に将軍贈られ小金牧中野牧高木村建てられ厩舎で、外国人2名が来て、すべて洋式飼育されたが、約2年維新となり成績上げられなかった、うち1頭は後に駒場農学校で割と長生きした記述がある。厩舎地名は、『千葉県の歴史』の記述矛盾せず、下総外国人を雇うことは異例であり、幕府の馬に対す重視を示す。『千葉県東葛飾郡誌』の記事原文は、代々牧士家系で、貴族院議員務めた三橋彌よるものであるが、三橋彌は『千葉県議員名鑑』によると、1932年65歳で、20頭は伝聞による誤差入り込んだか、どちらか一方移送頭数か、最終的に残った頭数か、不明である。 馬の到着時、徳川慶喜大阪にいたため、慶喜は馬を見ていない。松戸市公式ホームページでは、馬は25頭、慶喜贈られ慶応3年4月には横浜着いたが、大阪にいた慶喜の下には届かず慶喜写真にある馬は、ナポレオン三世から贈られ26頭には該当しないという説を紹介している。 農商務省農務局『輸入種牛系統取調書』(1888年、以下、取調書)には「佛帝ナポレオン三世ヨリ幕府送付セシ馬疋毛附写」として、牡11頭・牝15頭のアラビア名・フランス名、特徴記した1860年フランス宮内省カアン」育馬学校から徳川将軍への馬送付時の書付掲載され、計26頭の記載がある。うち、牝2頭に名前の記載がなく、体高年齢が同じで色も似ている同書発行時、何頭かは生存とある。1896年村上要信『日本馬改良策』に、ほぼ同じ書付があるが、カアンカマンになり、書付原文ではなく取調書』を見て誤記または誤植生じたとしない説明つかない。馬は文久元年横浜港到着とする一方で若干雉子橋の厩で飼育されたのを見たとしている。カアン1935年帝国競馬協会競馬に関する調査報告』で、「アルゼリー」に支所もあったCaenの馬の供給所と一致する4月12日徳川慶喜江戸出て松戸宿一泊水戸街道水戸向かった江戸中野牧厩詰用所襲撃を受け、一部アラビア馬西洋馬具奪われたが、4月28日には残った馬のうち、雄10頭が騎兵屯所移された。襲撃慶喜松戸宿宿泊後なら、4月12日27日の間である。牝については不明だが、元々、牡は11頭のため、奪われた牡は最大で1頭である。将軍の馬として江戸城留め置かれ小金牧に来なかった2頭のうち1頭が牡かどうか不明である。 函館大経からの聞き取り資料によると、脱走の徒が馬を奪うかも知れないと心配した勝安房命じられ下総引き取り行き沼津近く愛鷹牧で飼って繁殖させようとして、同所移したとのことである。引き取り同行した人間や、沼津移した時期については語られていないが、馬が贈られ経緯下総御囲等の内容は他の信頼できる資料とよく一致する。馬を騎兵屯所移したのが大経かは不明である。 『千葉県の歴史』では、馬が新政府所管となったその後不明とし、1873年にブリガッシュ・カズヌプが建白書出しその中で9頭を確認した事を記している。

※この「到着と幕府による飼育」の解説は、「ナポレオン三世の馬」の解説の一部です。
「到着と幕府による飼育」を含む「ナポレオン三世の馬」の記事については、「ナポレオン三世の馬」の概要を参照ください。

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