到着と幕府による飼育
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「ナポレオン三世の馬」の記事における「到着と幕府による飼育」の解説
1863年(文久3年)、公使に蚕紙寄贈云々勘定奉行に記録が残る。 1865年3月(元治2年2月)最初の蚕紙が贈られ、9月(旧8月)には次の蚕紙を送る旨、幕府側からフランス側に通知、10月19日(旧8月30日)に発送され、翌年、ロッシュが自身所有のアラビア馬1頭を将軍へ進呈する旨伝えている、と外務省資料にある。 1867年(慶応3年)、馬の到着前から、現白井市の名主で目付牧士川上次郎右衛門ほか30人が横浜に行き、フランス人から飼育伝習を受けたと、白井市の資料にある。 5月15日、綿貫夏右衛門と牧士、ほかに、別当という馬係26人に、伝習御用が命じられたと、『千葉県の歴史』にある。牧士らは、5月18日に横浜に行き、27日に戻って来た時には全員が洋装になっていた。 新暦5月29日、馬はアルジェリアからフランス軍事顧問団の本隊より後、横浜に到着と、澤護(敬愛大学)は、論文に記している。輸送担当はシモン・カズヌーブで、社会情勢も分析した上で、文久は慶応(『輸入種牛馬系統取調書』の1860年は1866年)の誤りで、文久年間の送付説を明快に否定している。当時の技術では、蚕卵の送付は夏には行えず、澤に従えば、1866年初頭フランス着で、8月20日まで家茂の死去も秘されており、馬の送り先は家茂である。送付の時期についてのニ説は後述する。Meron Medzini "DURING THE CLOSING YEARS OF THE TOKUGAWA REGIME"(Harvard College 1971)では、士官2人に、フランス宮廷から乗馬指導者instructorも兼ねた年老いた馬師riding masterが同行してきたとある。 馬の到着を受け、老中小笠原長行は7月27日(旧6月26日)に江戸城大手門内下乗橋外において寄贈を受ける旨ロッシュに伝えた。馬はフランス人14人余りが横浜から乗馬し江戸城に届けられた。日本仏学史学界では、「奥祐筆手留めの慶応3年6月26日の条」と原典を示し、贈呈式の前に雉子橋付近の厩舎に一旦収容された、としている。 1867年7月27日(慶応3年6月26日)、大手門内下乗橋外で贈呈式が行われ、フランス人一等士官1名に大小一腰紅白縮緬五端、兵士4名に洋銀200枚が贈られた。2頭は将軍の馬として召され、残りは新橋の馬小屋に運ばれ、さらに翌日、牧士はフランス人と共に乗馬して横浜に戻り、翌年まで飼育を続けた後、馬は小金牧に移された。馬は26頭で、駒10、駄15、控1である。『輸入種牛馬系統取調書』と照合すると、駒は牡、駄は牝を示すと考えられる。控1の意味は不明だが、馬が25頭とする説の元になった可能性が高い。残り24頭が小金牧に来た事になる。贈呈式後、馬が収容されたのは、横浜の太田陣屋で、26頭の馬は5班に分けられ、1班に1人ずつの牧士と1頭に1人ずつの別当がつき、飼育方法の伝習訓練が行われた。『千葉県の歴史』の原文のまま人名を示すと、フランスの関係者にはシャノアン・デジャン、馬教師には、ダイクール・エッサ、プリガッシュ・カズヌプなどがいた。伝習は半年に及んだため、牧士は何度か交代している。 1867年(慶応3年7月)小金原続村々『乍恐以書付奉願上候(外国之馬茂小金牧江放被遊候風聞之儀ニ付)』があり、小金牧へアラビア馬が来た事が確認できる。御勘定奉行『亜刺比亜馬小金表江率移候義ニ付申上置候書付』との資料もある。片桐一男(青山学院大学)は、中野牧・下野牧の牧士がアラビア馬を引受け管理したとしている。原資料が同じと考えられるが、白井市の資料と一致する。『北海道開拓記念館調査報告』にも函館大経の話として、下総牧に御囲牧を設け馬を飼育したとの記述があるが、馬は三十六頭と記されている。 1868年(慶応4年)、馬は2度に分けて小金牧へ移された。1度目は、1月4日に神田橋御門外の騎兵屯所、後、1月22日に五助木戸御囲、正式には「中野牧厩詰用所」へ移された。新たに設けられた中野牧厩詰用所には囲い場、厩、詰所があった。『千葉県の歴史』には「放された」とあるが、野馬として放牧されたとすると、厩の存在、西洋式の飼育方法と矛盾する。五助木戸は五香駅の東に当り、厩詰用所は現在の陸上自衛隊五香駐屯地付近と推定される。詳細は小金牧参照。2月18日に1頭が病死した。2度目の移送は、3月5日で、1度目と同様に行われた。『千葉縣東葛飾郡誌』に、アラビア馬20頭が慶應期に将軍へ贈られ、小金牧の中野牧高木村に建てられた厩舎で、外国人2名が来て、すべて洋式で飼育されたが、約2年で維新となり成績は上げられなかった、うち1頭は後に駒場農学校で割と長生きした旨記述がある。厩舎の地名は、『千葉県の歴史』の記述と矛盾せず、下総で外国人を雇うことは異例であり、幕府の馬に対する重視を示す。『千葉県東葛飾郡誌』の記事の原文は、代々牧士の家系で、貴族院議員も務めた三橋彌によるものであるが、三橋彌は『千葉県議員名鑑』によると、1932年に65歳で、20頭は伝聞による誤差が入り込んだか、どちらか一方の移送の頭数か、最終的に残った頭数か、不明である。 馬の到着時、徳川慶喜は大阪にいたため、慶喜は馬を見ていない。松戸市の公式ホームページでは、馬は25頭、慶喜に贈られ、慶応3年4月には横浜に着いたが、大阪にいた慶喜の下には届かず、慶喜の写真にある馬は、ナポレオン三世から贈られた26頭には該当しないという説を紹介している。 農商務省農務局『輸入種牛馬系統取調書』(1888年、以下、取調書)には「佛帝ナポレオン三世ヨリ幕府へ送付セシ馬疋毛附写」として、牡11頭・牝15頭のアラビア名・フランス名、特徴を記した、1860年フランス宮内省「カアン」育馬学校から徳川将軍への馬送付時の書付が掲載され、計26頭の記載がある。うち、牝2頭に名前の記載がなく、体高・年齢が同じで色も似ている。同書発行時、何頭かは生存とある。1896年、村上要信『日本馬匹改良策』に、ほぼ同じ書付があるが、カアンがカマンになり、書付の原文ではなく『取調書』を見て、誤記または誤植が生じたとしないと説明がつかない。馬は文久元年横浜港に到着とする一方で、若干が雉子橋の厩で飼育されたのを見たとしている。カアンは1935年帝国競馬協会『競馬に関する調査報告』で、「アルゼリー」に支所もあったCaenの馬の供給所と一致する。 4月12日、徳川慶喜が江戸を出て松戸宿に一泊、水戸街道を水戸に向かった。 江戸中野牧厩詰用所が襲撃を受け、一部のアラビア馬と西洋馬具を奪われたが、4月28日には残った馬のうち、雄10頭が騎兵屯所へ移された。襲撃は慶喜の松戸宿宿泊後なら、4月12日〜27日の間である。牝については不明だが、元々、牡は11頭のため、奪われた牡は最大で1頭である。将軍の馬として江戸城に留め置かれ、小金牧に来なかった2頭のうち1頭が牡かどうかは不明である。 函館大経からの聞き取り資料によると、脱走の徒が馬を奪うかも知れないと心配した勝安房に命じられ、下総へ引き取りに行き、沼津近くの愛鷹牧で飼って繁殖させようとして、同所に移したとのことである。引き取りに同行した人間や、沼津に移した時期については語られていないが、馬が贈られた経緯や下総の御囲等の内容は他の信頼できる資料とよく一致する。馬を騎兵屯所に移したのが大経かは不明である。 『千葉県の歴史』では、馬が新政府の所管となったその後は不明とし、1873年にブリガッシュ・カズヌプが建白書を出し、その中で9頭を確認した事を記している。
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