制定と牧士頭の任命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)
牧を管理した現地役人は牧士(もくし)と呼ばれ、苗字帯刀等武士の格式を持ち、鞍を置いての乗馬、野犬等から馬を守るための鉄砲の所持携行も認められた。牧士は文武天皇の代に設けられた職制・身分で、呉音訓である事も古い起源を裏付ける。当地域での任命は北条氏政の弘治期、あるいは天正期とされ、下総牧の原型の成立も同時期であると考えられる。 半野生の馬、野馬のいる牧の引継のため、特定は難しいが、江戸幕府の小金牧としての成立を慶長年間とする点は各資料に共通する。 1609(慶長9)年が牧の成立を最も古いとする説であり、『東葛飾郡誌』収録の貴族院議員三橋彌による明治39年1月1日千葉毎日新聞掲載の解説にある。陽成天皇の時代としている。 1614(慶長19)年を牧の制定とする資料が最も多い。1858(安政5)年『成田名所図会』1903年『成田山名所図会』また、前掲『下総御料牧場沿革誌』等、幕府による牧士頭の任命を慶長19年とする。『日本伝説叢書』では、天正年間徳川氏開府から始まったが、制度が明らかになったのは慶長19年とし、享保年間に野付村が定まり、寛政年間改正があったとしている。後述する綿貫氏に伝来した文書に慶長19年「小金之領野馬売付之帳」があり、慶長19年時点で馬の献上と払下げが行われていたことが裏付けられる。綿貫氏の由緒書によると慶長16年に野馬の調教を命じられた後、慶長17年と慶長19年に野馬捕を行ったとしているが、由緒書の内容には疑わしい点もある。『酒々井町史』では、慶長19年に牧士が徳川幕府によって正式に任命され、同時期に小金牧と佐倉牧が分かれたと推定している。享保期まで、牧士頭は小金牧と佐倉牧を管轄した。 初期は主に千葉氏・高城氏の旧臣、後には地元の名主等が牧士頭・牧士に任命された。世襲の牧士頭、享保年間以降の野馬奉行も小金の綿貫家が任命された。名は初代が重右衛門でその後は夏右衛門とした場合が多い。綿貫氏は千葉氏一族で、相馬氏ともつながり、小金城主高城氏の姻戚である。詳しくは野馬奉行参照。 旧暦4月1日、江戸表で徳川家康直々に野馬奉行兼牧士支配へ任命され、袷を着るべき時季に袷がなく、綿を抜いた綿入れを着て来たため、家康の命で、氏を綿貫と改め四月朔と号したと1845年(弘化2)没の12代政直の墓碑銘にあるが、後世の創作の可能性が青木更吉によって指摘されている。1918(大正7)年『房総町村と人物』「綿貫政吉」の項に、野馬奉行任命は慶長11年、綿を抜いて登城が一日遅れ、以下同様の話があるが、該当箇所の第2節の前も第2節、野馬奉行任命から大政奉還まで13年とする等の数字関係の誤植が多く、慶長11年の誤植の可能性が否定できない。四月一日と書いて「わたぬき」と読む姓があるが、前日まで綿入れを着用していたにせよ、すでに綿を抜いた袷を着用していたにせよ、重右衛門の登城が1日遅れる必要はなく、後世の創作とする説と矛盾しない。 野馬奉行は房総の三牧を支配した。野馬奉行綿貫氏邸に、14代将軍の乗鞍・水戸家所賜太刀・赤穂義士岡島某所帯短刀があり『房総町村と人物』では将軍の鞍は3組としている。野馬奉行の屋敷については後述する。 1619(元和5)年には小金牧の牧士が存在したが、苗字帯刀御免の特権も当初はなかった事が大谷貞夫によって示されている。 延宝期(1673-1681)には下総台地の各地で検地が実施され、小金牧でも牧の規模縮小と引き換えに牧を取り囲む多くの新田が成立した。新田と牧の境界に野馬除施設が設置され、牧から土地が分離された。 牧に接した一帯は徳川将軍家、水戸家の鷹狩の場であった。時期によって変遷はあるが、ほぼ、中野牧から西が将軍家、上野牧と中野牧の間が水戸家の鷹場であった。 1633(寛永10)年2月13日または1646(正保2)年、牧に隣接して水戸家の鷹場が置かれ、水戸侯の捕馬見物の記録もある。『水戸光圀卿生誕三百年記念講演』には、寛永10年2月、光圀6歳の時、父頼房に猟地を下総小金原に賜はるとある。少なくとも、光圀が1642(寛永19)年8月7日〜13日、頼房が1645(正保元)年11月2日〜15日まで「小金の狩場」で狩を行った。綱吉の時代に中断、1717(享保2)年7月5日再び水戸家の鷹場が置かれた。水戸家との関係は上野牧の節参照。
※この「制定と牧士頭の任命」の解説は、「小金牧」の解説の一部です。
「制定と牧士頭の任命」を含む「小金牧」の記事については、「小金牧」の概要を参照ください。
- 制定と牧士頭の任命のページへのリンク