おの‐ただあき〔をの‐〕【小野忠明】
小野忠明
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小野 忠明(おの ただあき、永禄12年(1569年)(永禄8年(1565年)とも)- 寛永5年11月7日(1628年12月2日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、剣豪、旗本。徳川将軍家指南役。前名は『寛政呈譜』では神子上 典膳(みこがみ てんぜん、『寛永系図』では御子神)で、後に母方の小野姓を名乗った。子に忠常。吉明ともいう。
- ^ 『武芸小伝』によるとかねてから善鬼を殺害したいと思っていた一刀斎は、事前に秘術夢想剣の極意を授け典膳(忠明)の勝利を助けたとある。
- ^ 石高は『寛政重修諸家譜』による。『武芸小伝』では300石とある。
- ^ 『徳川実紀』・『武芸小伝』による。徳川家への仕官の経緯は諸説あり、『耳嚢』『一刀流口伝書』では一刀斎の推薦によるものとしており、また善鬼が自分を差し置いて推挙された典膳(忠明)を妬んだことが、小金原の決闘に至る原因となったとしている。その他『一刀流三祖伝』では先に徳川家に仕官していた柳生宗矩と試合ってこれを圧倒したことで宗矩の推薦を得たとするが、実際に宗矩が仕官したのは文禄3年(1594年)と忠明より遅い。
- 1 小野忠明とは
- 2 小野忠明の概要
- 3 経歴
- 4 小野派一刀流開祖
小野忠明(登場シリーズ:『2』『3』)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 08:07 UTC 版)
「剣豪 (元気のゲームソフト)」の記事における「小野忠明(登場シリーズ:『2』『3』)」の解説
小野派一刀流の開祖。旧名、御子神典膳。将軍家指南役の一人。小野派一刀流道場主。
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小野忠明(おの ただあき)
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「あずみ」の記事における「小野忠明(おの ただあき)」の解説
小野派一刀流の祖。剣一筋の武人であり権勢を増大させる柳生宗矩を嫌い、柳生に敵愾心を燃やす。宗矩より強いと見られている。小野一門は駿府における徳川家康の警護を担当していた。高弟の松井凛太郎と貢喬助を最高傑作と自負していたが、その2人があずみに倒されるのを見届けた後、あずみに師匠の名を尋ね、あずみは小幡月斎の名を答えた。無名の恐るべき剣の師がいたことを知って愕然とし自らの完敗だと悟った。
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小野 忠明 (おの ただあき)
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「鎧亜騎譚」の記事における「小野 忠明 (おの ただあき)」の解説
武芸者。
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