小金御厩・小金御殿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 06:55 UTC 版)
小金御厩は、初期には牧士頭と呼ばれた幕府の野馬奉行の屋敷である。牧士頭時代には小金牧全体と佐倉牧の一部、享保期に野馬奉行と改称され、中野牧・下野牧以外を管理し、綿貫家が代々その職に就いた。屋敷の場所は、北小金駅前、旧水戸街道沿いで、『関宿多功道見取絵図』、『千葉縣東葛飾郡誌』にも図示されている。12代政直は綿貫家を中興、墓は流山の清瀧寺にある。『房総町村と人物』に綿貫政吉が北小金駅設置に尽力したとあり、北小金駅の一部は野馬奉行屋敷の敷地跡の一部に当たる。 小金御殿と呼ばれた水戸家旅館は、家臣格の日暮玄蕃が留守居役であった。『駅路鞭影記』に、江戸から水戸に向かい、小金宿の右、東18〜19丁に水戸侯の御下屋敷があり、屋守が浅川才兵衛、宿の左に日暮玄蕃の居宅があり、水戸侯の御旅館という旨の記述がある。幕末の天狗党について記した『波山記事』にある小金原は、小金宿の近くの原の意味で、小金牧と異なるが、資料に日暮玄蕃の名があり、留守居役は代々襲名の上、世襲だった事を示す。『千葉縣東葛飾郡誌』では、旅館の場所は松戸市立小金小学校辺りの郵便局裏一帯で、日暮玄蕃は高城氏の財貨を横領して財を成した後、水戸家に取入り、明治維新後、旅館を拝領したものの、浪費のため畑になってしまったと、初代から子孫まで、あまり好意的には記していない。郵便局は移転し、現在は郵便ポストがある。また、狩に訪れた光圀に襲いかかった猪を倒した事、日暮の宿について記した斉昭の書があった事、明治初年、吉原で俗謡ができるほどの浪費をした事も記している。井原西鶴『日本永代蔵』に「常陸の国に其身一代のうちの分限十万両のこがね(膠の月が金)が原と云所に日暮の何がしとて」の話がある。常陸とあるが「此所は江戸より程ちかければ」とも記されている。 「小金牧」も参照
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