鉾田陸軍飛行学校
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座標: 北緯36度8分31.4秒 東経140度33分48.2秒 / 北緯36.142056度 東経140.563389度
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中央官衙 |
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主要兵力 |
歴史・伝統 |
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国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
鉾田陸軍飛行学校(ほこたりくぐんひこうがっこう)は、日本陸軍の軍学校のひとつ。主として軽爆撃機あるいは襲撃機による攻撃に関する教育と研究等を行った。1940年(昭和15年)12月、静岡県の浜松陸軍飛行学校内に開設され、1941年(昭和16年)1月、茨城県に移転した。学校本部および本校は茨城県鹿島郡(現在の鉾田市)に置かれ、福島県相馬郡(現在の南相馬市)に原ノ町分教所があった。
1944年(昭和19年)6月、鉾田陸軍飛行学校は改編され鉾田教導飛行師団となり、さらに1945年7月、鉾田教導飛行師団は教導飛行師団 第3教導飛行隊と第26飛行団司令部に分離改編された。同年8月、太平洋戦争(大東亜戦争)終戦により教導飛行師団 第3教導飛行隊と第26飛行団司令部はともに解体された。ここでは鉾田教導飛行師団等についても述べる。
歴史
鉾田陸軍飛行学校
陸軍における航空爆撃の教育と研究は、古くは埼玉県所沢町の陸軍航空学校で行われ、1925年(大正14年)に初の爆撃専任部隊として飛行第7連隊が設立されると、同連隊内に練習部を設置し静岡県浜名郡で行われるようになった。1933年(昭和8年)8月、同じ浜名郡に浜松陸軍飛行学校が開校してからは同校が爆撃に関する教育と研究を行ってきた。この間、重爆撃機と軽爆撃機の器材、用法の違いがあっても練習部や学校はひとつのみであった。
1940年(昭和15年)7月、鉾田陸軍飛行学校令(軍令陸第17号)が制定され、同年12月に施行された[1]。これにより設立されたのが鉾田陸軍飛行学校である。学校令の第1条で鉾田陸軍飛行学校は「学生ニ軽爆撃飛行隊ニ必要ナル学術ヲ修得セシムルト共ニ(中略)且軽爆撃飛行隊ニ必要ナル兵器ノ調査、研究及試験ヲ行フ所」と定められた。以後、陸軍の航空爆撃教育と研究は重爆撃機によるものが浜松陸軍飛行学校、軽爆撃機(または襲撃機[* 1])によるものが鉾田陸軍飛行学校と、それぞれ分担して行われるようになった。
鉾田陸軍飛行学校の編制は陸軍航空総監に隷属[* 2]する校長のもと、幹事、本部、教育部、研究部、材料廠[* 3]、および学生であった。鉾田陸軍飛行学校は当初、浜松陸軍飛行学校内に開設され[2]、1941年(昭和16年)1月、茨城県鹿島郡新宮村(現在の鉾田市中部)に移転した[3]。

鉾田陸軍飛行学校令により、同校の被教育者は次のとおり定められた(1940年12月時点)。
- 甲種学生
- 戦術および爆撃に関する学術[* 4]を修習する者。航空兵科大尉。
- 必要に応じ、他兵科(憲兵科を除く)将校を甲種学生とすることも可(学校令第2条)。
- 修学期間は約6か月。通常毎年1回入校。
- 乙種学生
- 軽爆撃飛行隊操縦者に必要な学術を修習する者。新たに飛行機操縦を修得した航空兵科尉官。
- 必要に応じ、他兵科(憲兵科を除く)将校を乙種学生とすることも可(学校令第2条)。
- 修学期間は約4か月。毎年2回入校。
- その他
- 臨時に各兵科(憲兵科を除く)将校以下を召集し[* 5]、必要な教育を行うことも可(学校令第3条)。
学生の居住は甲種、乙種とも校外と定められていた。
鉾田陸軍飛行学校の設立に先立つ1940年9月、陸軍はそれまでの「歩兵科」「砲兵科」「航空兵科」といった兵科区分を、憲兵を除き単一の「兵科」として、新たに兵種を区分としていた[* 6]。これに対応して翌1941年(昭和16年)6月、鉾田陸軍飛行学校令が改正された(軍令陸第12号)[4]。同令改正では学生の「航空兵科」という条件が「航空関係ノ兵科」に修正された。さらに従来まで尉官のみであった乙種学生を尉官および見習士官にあらため、修学期間約4か月を約6か月に延長し校内に居住させ教育の充実を図った。甲種学生の修学期間と校外居住には変更がなかった。

1941年(昭和16年)12月、日本と米英など連合国との間で太平洋戦争(大東亜戦争)が開戦した。従来の支那事変やノモンハン事件における地上での戦闘に加えて、陸軍の航空爆撃も洋上における艦船攻撃に関する研究の重要性が1942年(昭和17年)ごろより一部で注目されたが、陸軍中央の反応は鈍かった[5]。同じころ、それまで熊谷、明野等の陸軍飛行学校が分教所を置いていた福島県相馬郡太田村(現在の南相馬市原町区)の原ノ町陸軍飛行場[6][7]は鉾田陸軍飛行学校が使用することとなり、同校の分教所が置かれた[8]。
1943年(昭和18年)3月にパプアニューギニアのダンピール海峡で米軍が日本の輸送船団攻撃に「跳飛爆撃」で大きな効果をあげると、翌年より鉾田陸軍飛行学校は新しい艦船攻撃の方法として跳飛爆撃の研究を行った[9][10]。
鉾田教導飛行師団
太平洋戦争の戦況が悪化した1944年(昭和19年)3月、参謀本部では連合軍機の本土襲来に備えて、教官、助教[* 7]など練度の高い要員を多く有する飛行学校と陸軍航空審査部を随時防空戦闘体制に移行させる「東二号作戦」が起案された。陸軍の学校、官衙[* 8]の初めての戦力化であり、士気高揚策でもあった[11]。これにもとづき臨時に防空任務につく諸部隊の総称が「東二号部隊」であり、参謀総長により配置が指示された[11]。鉾田陸軍飛行学校は同校が保有する数機の戦闘機を用いて第10飛行師団指揮下の東二号部隊として鉾田飛行隊を編成した[12]。
さらに同年6月、陸軍中央は飛行学校5校と1分校、および航空整備学校1校を完全に軍隊化し[* 9]、航空総監隷下で教育と作戦行動を常時並行して行わせることとした。下志津教導飛行師団等臨時編成要領(軍令陸乙第29号)により鉾田陸軍飛行学校は閉鎖され、鉾田教導飛行師団に改編された[13][14][15]。鉾田教導飛行師団の編制は師団司令部、2個教導飛行隊、1個教導整備隊、通信隊、教育隊と学生であり、鉾田、原ノ町の各陸軍飛行場に分散展開した[16]。同年8月には航空総監部の兼任による教導航空軍司令部が編成され、各教導飛行師団を指揮した[16]。
鉾田教導飛行師団の被教育者は、編成表により大尉を対象とする甲種学生、尉官対象の乙種学生、同じく射撃学生と、准士官および下士官からなる己種学生(きしゅがくせい)とされた[17]。己種学生とはそれまで陸軍航空士官学校で教育が行われていた少尉候補者を、1944年5月陸軍航空関係少尉候補者教育令(勅令第344号)により各部隊での教育に改めた学生である[18]。
1944年7月、米軍が太平洋のサイパン島を占領すると、同島を含むマリアナ諸島を拠点としたB-29爆撃機による日本本土攻撃が予測された。大本営陸軍部はその事前制圧を企図し、参謀総長の指示により鉾田教導飛行師団に司令部偵察機1個中隊が編成された[* 10][19][20]。同年10月、前述の特別任務中隊は第3独立飛行隊として正式の軍隊編制に改められ、翌11月より硫黄島を経由したマリアナ方面の米軍飛行場攻撃作戦に参加した[21]。
マリアナ方面攻撃と前後する1944年初期より、陸軍中央では飛行機が艦船に体当たりを行う特別攻撃の検討を開始していた[22]。同年7月、教導航空軍司令部は鉾田教導飛行師団に対し、九九式双発軽爆撃機による特別攻撃隊の編成を内示した[* 11][23]。1944年10月21日、鉾田教導飛行師団において岩本益臣[* 12]大尉以下16名による特別隊が編成された。同隊はフィリピンに移動し、同月29日、ルソン島バタンガス州リパで「萬朶隊」[* 13]と命名された[24]。この萬朶隊および同時期に浜松教導飛行師団から編成された「富嶽隊」が、陸軍で最初に編成された特別攻撃隊である。

同年11月、フィリピンの戦いで特別攻撃隊による体当たり攻撃が行われるようになると、「八紘特別攻撃隊」全12隊からは九九式襲撃機を使用する第5隊(鉄心隊)、二式複座戦闘機を使用する第8隊(勤皇隊)、同じく第11隊(皇魂隊)が鉾田教導飛行師団の人員により編成された[25]。各隊の隊長は士官候補生第56期の出身で陸軍航空士官学校または陸軍士官学校[* 14]を卒業し前年の鉾田陸軍飛行学校における乙種学生教育修了後、そのまま教官となった若い中尉たちである[26][27]。隊員は同じ鉾田教導飛行師団の乙種学生を秋に卒業したばかりの士官候補生第57期出身者や特別操縦見習士官と、少年飛行兵出身の伍長などの混成であった。同年12月、航空総監部の兼任であった教導航空軍司令部は編成を解かれ、第6航空軍司令部が編成された[28]。
1945年(昭和20年)1月、「振武特別攻撃隊」30隊(第18~第47)、同年3月にはさらに69隊(第48~第116)の編成が発令され、そのうち鉾田教導飛行師団より計5隊が抽出されている[29]。
同年4月、本土決戦に備え航空諸軍を統率する天皇直隷の航空総軍司令部が編成され[30][31]、航空総監部は閉鎖された[32][33]。これにともない鉾田教導飛行師団は航空総軍司令官の隷下に入った[34][35]。同年4月18日、「下志津陸軍飛行学校令外四軍令廃止ノ件」(軍令陸第11号)の施行により鉾田陸軍飛行学校令が廃止となり、閉鎖中であった同校は正式に廃止された[36]。
教導飛行師団 第3教導飛行隊
1945年(昭和20年)7月10日、軍令陸甲第103号[* 15]が下令され、それまで航空要員の教育と作戦行動を兼務していた明野、浜松、鉾田ほか各教導飛行師団は教育部隊と作戦部隊に分離改編された[37][38][39]。教育専任となったのは、従来6個編成であった各地の教導飛行師団を統合し地名を冠称しない教導飛行師団(司令部は従来の宇都宮教導飛行師団基幹)1個である。その編制は司令部と6個教導飛行隊からなり[38][40][41]、鉾田教導飛行師団の主力は教育専任として教導飛行師団の第3教導飛行隊に改編された[42][38]。
同時に作戦専任としては第1航空軍隷下となる第26飛行団司令部が、それまでの鉾田教導飛行師団の一部より編成され[* 16]、鉾田陸軍飛行場にそのまま司令部を置いた[43][44]。
同年8月、御前会議でポツダム宣言の受諾が最終決定され、8月15日正午より太平洋戦争終戦に関する玉音放送が行われた。陸軍のすべての部隊は一切の武力行使を停止され[45]、第3教導飛行隊は同月中に復員した[46]。
年譜
- 1940年(昭和15年)12月 - 静岡県の浜松陸軍飛行学校内に鉾田陸軍飛行学校を開設。
- 1941年(昭和16年) 1月 - 鉾田陸軍飛行学校を茨城県鹿島郡に移転。
- 1944年(昭和19年) 6月 - 鉾田陸軍飛行学校を鉾田教導飛行師団に改編。
- 1945年(昭和20年)
- 7月 - 鉾田教導飛行師団を教導飛行師団 第3教導飛行隊に改編。
- 8月 - 終戦、復員。
歴代校長
鉾田陸軍飛行学校
- 柴田信一 少将:1940年12月2日 - 1942年12月1日(在職中、中将に進級)
- 藤塚止戈夫 少将:1942年12月1日 - 1943年10月18日
- 今西六郎 少将:1943年10月18日 - 1944年6月20日
鉾田教導飛行師団
教導飛行師団編成により、それまでの校長は教導飛行師団長となった。ただし通常の飛行師団長の階級が中将であり天皇より直接任じられる親補職であるのに対し[47]、教導飛行師団長は親補職ではなかった[48]。
教導飛行師団
明野教導飛行師団、常陸教導飛行師団、鉾田教導飛行師団、浜松教導飛行師団、下志津教導飛行師団、宇都宮教導飛行師団は合併し単一の教導飛行師団(司令部:栃木県芳賀郡)となり、鉾田には第3教導飛行隊が置かれた。
師団長
第3教導飛行隊隊長
- 高橋賢一 少佐:1945年7月18日[52] -
脚注
注釈
- ^ 襲撃機(しゅうげきき)とは、超低空または降下爆撃によって地上の敵を攻撃することに適した飛行機のこと。1938年「陸軍航空本部兵器研究方針」によって決定された。『陸軍航空兵器の開発・生産・補給』180頁
- ^ 隷属(れいぞく)とは固有の上級者の指揮監督下に入ること。単に指揮系統だけでなく、統御、経理、衛生などの全般におよぶ。『帝国陸軍編制総覧 第一巻』61頁
- ^ 材料廠(ざいりょうしょう)とは、器材の組み立てや修理および管理などを行う部署のこと。
- ^ 学校令原文ママ。三省堂『大辞林』によれば「学術」の意味のひとつに「学問と技術」がある。この場合、具体的には「学科」と「術科」のこと。以下同じ。
- ^ この場合の召集とは在郷軍人を軍隊に召致することではなく、すでに軍務についている軍人を特別教育のため指名することである。
- ^ 鉾田陸軍飛行学校令の制定は、それより前の7月であった。
- ^ 陸軍では教育を担当する将校を教官、教官を補佐する下士官を助教とした。
- ^ 官衙(かんが)とは一般には官庁あるいは役所を意味する。陸軍の官衙は陸軍省など東京中心部に置かれたものだけでなく、各地の連隊区司令部や、陸軍病院なども含まれる。陸軍航空審査部は陸軍官衙のひとつである。『陸軍読本』58-68頁
- ^ ここでいう軍隊とは、陸軍全体を「軍隊」「官衙」「学校」「特務機関」の4つに類別した場合のひとつ。司令部を含めた師団等や部隊の総称と考えてよい。『陸軍読本』52頁
- ^ 同時に下志津教導飛行師団にも司令部偵察機、浜松教導飛行師団には重爆撃機による各1個中隊の編成が下令された。
- ^ 同時期に浜松教導飛行師団に対しては、重爆撃機を使用した特別攻撃隊の編成が内示された。
- ^ 岩本益臣(いわもとますみ)陸軍大尉。陸軍航空士官学校卒業(第53期)、1943年3月より鉾田陸軍飛行学校教官。1944年11月5日戦死、少佐進級。「ますみ」の読みは岩本少佐の故郷、豊前市の印刷物による。「ふるさと豊前・人物再発見 No.74」 『広報 豊教だより』第65号、2012年5月1日
- ^ 萬朶(ばんだ)の隊名は、参謀総長梅津美治郎大将が藤田東湖の漢詩「文天祥正氣ノ歌ニ和ス(正気の歌)」―「天地正大気 粹然鐘神州 秀爲不二嶽 巍巍聳千秋 注爲大瀛水 洋洋環八州 發爲萬朶櫻 衆芳難與儔(後略)」を出典として命名した。『比島捷号陸軍航空作戦』347頁
- ^ 地上兵種の教育を行う陸軍士官学校から航空へ転科する場合がある。皇魂隊の隊長、三浦恭一中尉は地上兵種からの転科。『陸軍航空士官学校』211頁
- ^ 軍令の名称は「第二十戦闘飛行集団司令部 教導飛行師団等臨時編成(編制改正)第三百五十四次復帰要領」(原文は旧字体)。
- ^ 飛行団長は鉾田教導飛行師団の高品朋師団長を補職。
出典
- ^ 軍令 陸第17号。『官報』第4055号、1940年7月13日
- ^ 彙報 鉾田陸軍飛行学校設置。『官報』第4183号、1940年12月11日
- ^ 彙報 鉾田陸軍飛行学校移転。『官報』第4211号、1941年1月22日
- ^ 軍令 陸第12号。『官報』第4327号、1941年6月12日
- ^ 『陸軍航空兵器の開発・生産・補給)』434-435頁
- ^ 「陸密綴昭和14年(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C01007769900
- ^ 「昭和16年 陸(支満)密綴 第5研究所(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C08030006800
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- ^ 秦郁彦「飛行第三戦隊は離陸せしや」
- ^ 『陸軍航空の軍備と運用 (3)』264,268頁
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- ^ 『陸軍軍戦備』428頁
- ^ 『本土防空作戦』316-317頁
- ^ a b 『本土防空作戦』317-326頁
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- ^ 『陸軍航空の軍備と運用 (3)』344頁
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- ^ 『陸軍航空の軍備と運用 (3)』266-267頁
- ^ 『陸軍航空の軍備と運用 (3)』263-270頁
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- ^ 『帝国陸軍編制総覧 第三巻』1163頁
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- ^ 「陸軍異動通報 昭和19年12月26日~20年11月22日(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C12120963000
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参考文献
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』初版、東京大学出版会、1991年。
- 外山操・森松俊夫編著『帝国陸軍編制総覧 第一巻』芙蓉書房出版、1993年。
- 外山操・森松俊夫編著『帝国陸軍編制総覧 第三巻』芙蓉書房出版、1993年。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『本土防空作戦』朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1968年。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『陸軍航空の軍備と運用(2)昭和十七年前期まで』朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1974年。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『陸軍航空の軍備と運用(3)大東亜戦争終戦まで』朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1976年。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『陸軍航空兵器の開発・生産・補給』朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1975年。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『陸軍軍戦備』朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1979年。
- 田中耕二・河内山譲・生田惇編『日本陸軍航空秘話』原書房、1981年。
- 秋山紋次郎・三田村啓『陸軍航空史』原書房、1981年。
- 航空碑奉賛会編『続 陸軍航空の鎮魂』1982年。
- 秦郁彦「飛行第三戦隊は離陸せしや」『太平洋戦争航空史話 (上)』中央公論社〈中公文庫〉、1995年。
- 陸軍航空士官学校史刊行会編『陸軍航空士官学校』1996年。
- 小沢敬司『所沢陸軍飛行場史』私家版、1978年。(所沢市立図書館蔵書)
- 大久保弘一『陸軍読本』日本評論社、1938年。(国立国会図書館デジタル化資料)
- 仁村俊『航空五十年史』鱒書房、1943年。(国立国会図書館デジタル化資料)
関連項目
鉾田陸軍飛行学校
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士官候補生第50期。在学中に航空兵科へ転科し、陸軍航空士官学校の最初の卒業者の一人となった。卒業後、浜松飛行学校で軽爆撃機の操縦を習得した。操縦の技術は高く、1940年(昭和15年)に神武天皇即位紀元(皇紀)2600年を祝った紀元二千六百年記念観兵式では選抜されて昭和天皇の前で編隊飛行を披露している。 1942年に陸軍大学校に進学したが、在学中の1944年5月に首相兼陸軍大臣の東條英機が陸軍大学を訪れ、「パイロットがこんなところで勉強しているのはもったいない。いまは戦隊長が足りないときだ。早期に卒業して第一線に行くように」と申し渡し、倉澤を含む16名の航空所属者は他の同期生より2ヶ月早く卒業し、鉾田の陸軍飛行学校研究部に赴任。この時期取り組みの始まった「跳飛爆撃」の研究を命じられる。 海軍航空隊と異なり、対艦船攻撃手段に乏しい陸軍航空隊は、航空機による魚雷攻撃と並んで、跳飛爆撃を有力な対艦船攻撃手段の一つとして力を入れて、岩本益臣大尉や佐々木友次伍長など陸軍航空隊のなかでも特に操縦技術に優れた搭乗員を集めて研究と訓練を行った。しかし、陸軍きっての操縦技術を有する岩本らとは言え、陸軍の爆撃機の搭乗員は元々、ソビエト連邦軍の地上部隊を爆撃することを想定した、投下した爆弾を炸裂させて地上の広い範囲に大打撃を与えるような爆撃技術をたたき込まれており、海軍の搭乗員が訓練してきた、海上の航行中の艦船に投下した爆弾を命中させるといった精密性を要する爆撃は不得手であった。そのために岩本ら陸軍の搭乗員は訓練を初歩からやりなおす他なかった。 1944年には、航空本部の主催で、神奈川県の真鶴岬にて陸軍航空審査部と各航空隊との跳飛爆撃の合同訓練が行われた。岬の南に点在している岩を目標として、爆弾の投下訓練を行った。この訓練は大成功で、ほぼ百発百中に近い好成績を得られた。特に岩本がこれまでの訓練の成果を発揮し、命中弾の半数をひとりでたたき出している。しかし、この訓練を視察していた鉾田陸軍飛行学校校長今西六郎少将(のちに中将)は「本戦法は鈍重、低速機に適しない。波が高いときは、波の山に当たれば40mから50mの高さに跳飛して船を飛び越え、谷に落ちれば跳飛しないことがある」「波が静かなときは、目標から100mから200mに投下して百発百中である。いずれの場にも効果があるのは、舷側迄水面下を直撃するように投下することである。編隊のまま攻撃するのは相互に妨害して不利である」と穏やかな海面でしか十分な効果が発揮できないという感想を抱いた。8月には、少し厳しい環境での実験として、沖縄の那覇で風速10mから15mの風が吹いている環境下で沈没船を目標として実験を行った。このときは全体での命中率が60%に低下したが、岩本はただ一人ほぼ全弾命中という驚異的な結果を残したという。この一連の実験で、陸軍作戦機の殆どで実施可能という長所があると判ったが、一方で、投下爆弾が海面でのバウンドで減速するために、爆弾衝突時の速度が他の攻撃法と比較して著しく遅くなり重装甲の軍艦には通用しないことと、また爆撃機の行動を軽快、優速に保つため、大質量の爆弾を装備できないことが判明したが、これらは攻撃の成果に重大な懸念を抱かせる致命的な欠陥と言えた。 岩本らが訓練をしていた頃、倉澤が跳飛爆撃(海軍名反跳爆撃)の研究を行っていた海軍航空隊の横須賀鎮守府の横須賀海軍航空隊を訪ねて訓練を見学をしたところ、海軍の陸上攻撃機や艦上攻撃機の数機が目標の模擬航空母艦に向けて同時に高度1,000mから急降下、その後に水平飛行に移行し、海面スレスレの高度で各方向から一斉に目標に襲いかかる光景を見て、海軍航空隊の訓練の凄まじさに言葉を失い「目標が海上を動いているだけに、跳飛弾訓練は難しい。陸軍の艦船攻撃は全くの初歩の段階だ。最初からやり直すしかない」と岩本を含む陸軍航空隊と海軍航空隊の熟練度の乖離に絶望し、ともに跳飛爆撃を研究していた教導飛行研究部福島尚道大尉に「(跳飛爆撃の研究を続けている)もう、時間は無い」「跳飛爆撃訓練を徹底的に行わせることによって、特攻隊攻撃に転用できるのではないか。1,000mの高度から、跳飛爆撃と同じ角度で突っ込み、その勢いをかって直接体当たりすれば成功する」と意見を述べたところ福島も「やはりそれ以外に敵艦を撃沈する方法はありませんね」と同意し、2人でその特攻戦術をまとめた意見書を作成し、航空本部を通じて参謀本部に提出している。福島は「体当たり攻撃の最大の欠点は落速の不足にある。爆弾の落速に比較すれば、飛行機はその二分の一程度であるから装甲板を貫通することができない。従って体当たり攻撃では、一般として撃沈の可能性はない」などと主張して特攻の開始には反対していたが、現実的な問題によって特攻容認に転じていた。 その意見書に基づき、別府湾で海軍の空母鳳翔と標的艦摂津を使用して行われた航行中の艦船に対する訓練では、九九式双発軽爆撃機に500kg爆弾を搭載して、1,000mから急降下させたところ、陸軍の軽爆撃機と搭乗員ではその後に海軍機のような海面スレスレの飛行に移行できず、なかには急降下の惰性で海上に突っ込む機もあって、陸軍機に500kg爆弾以上の大型爆弾を搭載し跳飛爆撃は困難であるとして、技術が乏しくても可能な特攻開始へ向けての準備が進むこととなり、のちに、跳飛爆撃の訓練を行っていた岩本や佐々木らはそのまま、陸軍特別攻撃隊万朶隊や富嶽隊として編成されることとなった。 同年9月、倉澤は徳之島での訓練を視察したのちに、自ら九九式襲撃機を操縦して途中立ち寄った知覧基地を離陸した際、100mほど上昇した直後にエンジンが突然停止して墜落。倉澤は頭から計器板につっこみ頭蓋骨骨折の重傷を負って、さらに雨水が脳内に浸入したことにより意識不明の重体となり、診察した軍医からは「どうせ死ぬから動かすな」とさじを投げられたほどであった。手術もせずに病院のベッドに寝かされていたが、1週間経っても呼吸が止まることがなかったので、延命できる可能性も出て、熊本の陸軍病院まで輸送されて手術が施された。手術を担当した軍医は「倉澤少佐はまもなく死ぬか、生きたとしても頭が変になるだろう、左目をやられているからもう操縦は無理だ」と宣告した。手術は成功したが、一度の手術では足りず、1ヶ月後には東京の陸軍病院に転院して再手術を受け、その後熱海陸軍保養所で静養することとなった。 この重傷の後遺症で倉澤は、生涯頭が割れるような激しい頭痛に襲われるようになり、頭痛のときはヒステリックとなって、保養所で暴れて退所させられた。その後、一命は取り留めたが、左眼の視力が極端に落ち、パイロットとしての活動は不可能になった。本来なら予備役行きとなるほどの重症と後遺症であったが、これまでの激戦で同期の航空士官は多くが戦死しており、航空士官が不足していたことからそのまま現役に残って鉾田に復帰した。しかし、復帰してからも頭痛は続き、上官だろうが誰それ関係なく喧嘩をふっかけるようになって周りからは煙たがられた。この後遺症によるヒステリーは、後年の一部の特攻隊員に対する厳しい態度にも現れ、その頭痛を和らげるための飲酒が常態化するようになった。
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