鉾田陸軍飛行学校とは? わかりやすく解説

鉾田陸軍飛行学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/24 06:30 UTC 版)

鉾田陸軍飛行学校(ほこたりくぐんひこうがっこう)は、日本陸軍軍学校のひとつ。主として軽爆撃機あるいは襲撃機による攻撃に関する教育と研究等を行った。1940年昭和15年)12月、静岡県浜松陸軍飛行学校内に開設され、1941年(昭和16年)1月、茨城県に移転した。学校本部および本校は茨城県鹿島郡(現在の鉾田市)に置かれ、福島県相馬郡(現在の南相馬市)に原ノ町分教所があった。


注釈

  1. ^ 襲撃機(しゅうげきき)とは、超低空または降下爆撃によって地上の敵を攻撃することに適した飛行機のこと。1938年「陸軍航空本部兵器研究方針」によって決定された。『陸軍航空兵器の開発・生産・補給』180頁
  2. ^ 隷属(れいぞく)とは固有の上級者の指揮監督下に入ること。単に指揮系統だけでなく、統御、経理、衛生などの全般におよぶ。『帝国陸軍編制総覧 第一巻』61頁
  3. ^ 材料廠(ざいりょうしょう)とは、器材の組み立てや修理および管理などを行う部署のこと。
  4. ^ 学校令原文ママ。三省堂『大辞林』によれば「学術」の意味のひとつに「学問と技術」がある。この場合、具体的には「学科」と「術科」のこと。以下同じ。
  5. ^ この場合の召集とは在郷軍人を軍隊に召致することではなく、すでに軍務についている軍人を特別教育のため指名することである。
  6. ^ 鉾田陸軍飛行学校令の制定は、それより前の7月であった。
  7. ^ 陸軍では教育を担当する将校を教官、教官を補佐する下士官を助教とした。
  8. ^ 官衙(かんが)とは一般には官庁あるいは役所を意味する。陸軍の官衙は陸軍省など東京中心部に置かれたものだけでなく、各地の連隊区司令部や、陸軍病院なども含まれる。陸軍航空審査部は陸軍官衙のひとつである。『陸軍読本』58-68頁
  9. ^ ここでいう軍隊とは、陸軍全体を「軍隊」「官衙」「学校」「特務機関」の4つに類別した場合のひとつ。司令部を含めた師団等や部隊の総称と考えてよい。『陸軍読本』52頁
  10. ^ 同時に下志津教導飛行師団にも司令部偵察機、浜松教導飛行師団には重爆撃機による各1個中隊の編成が下令された。
  11. ^ 同時期に浜松教導飛行師団に対しては、重爆撃機を使用した特別攻撃隊の編成が内示された。
  12. ^ 岩本益臣(いわもとますみ)陸軍大尉。陸軍航空士官学校卒業(第53期)、1943年3月より鉾田陸軍飛行学校教官。1944年11月5日戦死、少佐進級。「ますみ」の読みは岩本少佐の故郷、豊前市の印刷物による。「ふるさと豊前・人物再発見 No.74」 『広報 豊教だより』第65号、2012年5月1日
  13. ^ 萬朶(ばんだ)の隊名は、参謀総長梅津美治郎大将が藤田東湖の漢詩「文天祥正氣ノ歌ニ和ス(正気の歌)」―「天地正大気 粹然鐘神州 秀爲不二嶽 巍巍聳千秋 注爲大瀛水 洋洋環八州 發爲萬朶櫻 衆芳難與儔(後略)」を出典として命名した。『比島捷号陸軍航空作戦』347頁
  14. ^ 地上兵種の教育を行う陸軍士官学校から航空へ転科する場合がある。皇魂隊の隊長、三浦恭一中尉は地上兵種からの転科。『陸軍航空士官学校』211頁
  15. ^ 軍令の名称は「第二十戦闘飛行集団司令部 教導飛行師団等臨時編成(編制改正)第三百五十四次復帰要領」(原文は旧字体)。
  16. ^ 飛行団長は鉾田教導飛行師団の高品朋師団長を補職。

出典

  1. ^ 軍令 陸第17号。『官報』第4055号、1940年7月13日
  2. ^ 彙報 鉾田陸軍飛行学校設置。『官報』第4183号、1940年12月11日
  3. ^ 彙報 鉾田陸軍飛行学校移転。『官報』第4211号、1941年1月22日
  4. ^ 軍令 陸第12号。『官報』第4327号、1941年6月12日
  5. ^ 『陸軍航空兵器の開発・生産・補給)』434-435頁
  6. ^ 陸密綴昭和14年(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C01007769900 
  7. ^ 昭和16年 陸(支満)密綴 第5研究所(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C08030006800 
  8. ^ 陸密綴昭和18年(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C01007813100 
  9. ^ 秦郁彦「飛行第三戦隊は離陸せしや」
  10. ^ 『陸軍航空の軍備と運用 (3)』264,268頁
  11. ^ a b 『陸軍軍戦備』403頁
  12. ^ 『本土防空作戦』246-248頁
  13. ^ 下志津教導飛行師団等 臨時編成要領 同細則 昭19.6.13(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C14010700300 
  14. ^ 『陸軍軍戦備』428頁
  15. ^ 『本土防空作戦』316-317頁
  16. ^ a b 『本土防空作戦』317-326頁
  17. ^ 下志津教導飛行師団等 臨時編成要領 同細則 昭19.6.13(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C14010700200 
  18. ^ 御署名原本・昭和十九年・勅令第三四四号・陸軍航空関係少尉候補者教育令(国立公文書館)」 アジア歴史資料センター Ref.A03022289100 
  19. ^ 『陸軍航空の軍備と運用 (3)』343頁
  20. ^ 『日本陸軍重爆隊』273頁
  21. ^ 『陸軍航空の軍備と運用 (3)』344頁
  22. ^ 『比島捷号陸軍航空作戦』344頁
  23. ^ 『陸軍航空の軍備と運用 (3)』266-267頁
  24. ^ 『陸軍航空の軍備と運用 (3)』263-270頁
  25. ^ 『陸軍航空の軍備と運用 (3)』329-330頁
  26. ^ 『陸軍航空の軍備と運用 (3)』330頁
  27. ^ 『陸軍航空士官学校』210-211頁
  28. ^ 『本土防空作戦』432-433頁
  29. ^ 『陸軍航空の軍備と運用 (3)』402-403頁
  30. ^ 『本土防空作戦』503-507頁
  31. ^ 『陸軍軍戦備』482頁
  32. ^ 軍令 陸第10号。『官報』第5472号、1945年4月14日
  33. ^ 御署名原本・昭和二十年・勅令第二二九号・陸軍航空総監部医務部令ノ適用停止ニ関スル件(国立公文書館)」 アジア歴史資料センター Ref.A04017733700 
  34. ^ 『本土防空作戦』515-517頁
  35. ^ 『陸軍航空の軍備と運用 (3)』474頁
  36. ^ 軍令 陸第11号。『官報』第5472号、1945年4月14日
  37. ^ 『陸軍軍戦備』495頁
  38. ^ a b c 『本土防空作戦』605頁
  39. ^ 第20戦闘飛行集団司令部 教導飛行師団等臨時編成(編制改正)復帰要領 同細則 昭20.7.10(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C14010706100 
  40. ^ 『陸軍軍戦備』495頁
  41. ^ 『陸軍航空の軍備と運用 (3)』418頁
  42. ^ 『陸軍航空の軍備と運用 (3)』413頁
  43. ^ 『陸軍航空の軍備と運用 (3)』413,418頁
  44. ^ 『帝国陸軍編制総覧 第三巻』1163頁
  45. ^ 『陸軍軍戦備』500頁
  46. ^ 陸軍部隊調査表 其1(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C12121088100 
  47. ^ 軍令 陸第5号。『官報』第4577号、1942年4月15日
  48. ^ 陸軍異動通報 3/6 昭19年(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C12120911900 
  49. ^ 陸軍異動通報 3/4 昭和20年(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C12120941100 
  50. ^ 陸軍異動通報 3/4 昭和20年(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C12120941300 
  51. ^ 陸軍異動通報 昭和19年12月26日~20年11月22日(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C12120963000 
  52. ^ 陸軍異動通報 昭和19年12月26日~20年11月22日(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C12120963100 


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鉾田陸軍飛行学校

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倉澤清忠」の記事における「鉾田陸軍飛行学校」の解説

士官候補生50期在学中航空兵科転科し、陸軍航空士官学校最初卒業者一人となった卒業後、浜松飛行学校軽爆撃機操縦習得した操縦技術高く1940年昭和15年)に神武天皇即位紀元皇紀2600年を祝った紀元二千六百年記念観兵式では選抜され昭和天皇の前で編隊飛行披露している。 1942年陸軍大学校進学したが、在学中1944年5月首相陸軍大臣東條英機陸軍大学訪れ、「パイロットがこんなところで勉強しているのはもったいない。いまは戦隊長足りないときだ。早期卒業して第一線に行くように」と申し渡し倉澤を含む16名の航空所属者は他の同期生より2ヶ月早く卒業し鉾田陸軍飛行学校研究部赴任。この時期取り組み始まった跳飛爆撃」の研究命じられる海軍航空隊異なり対艦攻撃手段乏し陸軍航空隊は、航空機による魚雷攻撃並んで跳飛爆撃有力な対艦攻撃手段一つとして力を入れて岩本益臣大尉佐々木友次伍長など陸軍航空隊なかでも特に操縦技術優れた搭乗員集めて研究訓練行った。しかし、陸軍きっての操縦技術有する岩本とは言え陸軍爆撃機搭乗員は元々、ソビエト連邦軍地上部隊爆撃することを想定した投下した爆弾炸裂させて地上の広い範囲大打撃与えるような爆撃技術をたたき込まれており、海軍搭乗員訓練してきた、海上航行中艦船投下した爆弾命中させるといった精密性を要する爆撃不得手であった。そのために岩本陸軍搭乗員訓練初歩からやりなおす他なかった。 1944年には、航空本部主催で、神奈川県真鶴岬にて陸軍航空審査部と各航空隊との跳飛爆撃合同訓練が行われた。岬の南に点在している岩を目標として、爆弾投下訓練行った。この訓練大成功で、ほぼ百発百中に近い好成績得られた。特に岩本これまでの訓練成果発揮し命中弾の半数ひとりでたたき出している。しかし、この訓練視察していた鉾田陸軍飛行学校校長今西六郎少将(のちに中将)は「本戦法は鈍重低速機に適しない。波が高いときは、波の山に当たれば40mから50mの高さに跳飛して船を飛び越え、谷に落ちれば跳飛しないことがある」「波が静かなときは、目標から100mから200m投下して百発百中である。いずれの場にも効果があるのは、舷側水面下直撃するように投下することである。編隊のまま攻撃するのは相互に妨害して不利である」と穏やかな海面でしか十分な効果発揮できないという感想抱いた8月には、少し厳しい環境での実験として、沖縄那覇風速10mから15mの風が吹いている環境下で沈没船目標として実験行った。このときは全体での命中率60%に低下したが、岩本はただ一人ほぼ全弾命中という驚異的な結果残したという。この一連の実験で、陸軍作戦機の殆どで実施可能という長所があると判ったが、一方で投下爆弾海面でのバウンド減速するために、爆弾衝突時の速度が他の攻撃法比較して著しく遅くなり重装甲軍艦には通用しないことと、また爆撃機行動軽快、優速に保つため、大質量爆弾装備できないこと判明したが、これらは攻撃成果重大な懸念抱かせる致命的な欠陥と言えた。 岩本らが訓練をしていた頃、倉澤跳飛爆撃海軍反跳爆撃)の研究行っていた海軍航空隊横須賀鎮守府横須賀海軍航空隊訪ねて訓練見学をしたところ、海軍陸上攻撃機艦上攻撃機の数機が目標模擬航空母艦向けて同時に高度1,000mから急降下その後飛行移行し海面スレスレの高度で各方向から一斉に目標襲いかかる光景見て海軍航空隊訓練の凄まじさに言葉失い目標海上動いているだけに、跳飛弾訓練難しい。陸軍艦船攻撃は全くの初歩段階だ。最初からやり直すしかない」と岩本を含む陸軍航空隊海軍航空隊熟練度乖離絶望し、ともに跳飛爆撃研究していた教導飛行研究部福島尚道大尉に「(跳飛爆撃研究続けている)もう、時間は無い」「跳飛爆撃訓練徹底的に行わせることによって、特攻隊攻撃転用できるのではないか。1,000mの高度から、跳飛爆撃と同じ角度突っ込み、その勢いをかって直接体当たりすれば成功する」と意見述べたところ福島も「やはりそれ以外敵艦撃沈する方法はありませんね」と同意し2人でその特攻戦術をまとめた意見書作成し航空本部通じて参謀本部提出している。福島は「体当たり攻撃最大の欠点は落速の不足にある。爆弾の落速に比較すれば飛行機はその二分の一程度であるから装甲板貫通することができない。従って体当たり攻撃では、一般として撃沈可能性はない」などと主張して特攻開始には反対していたが、現実的な問題によって特攻容認転じていた。 その意見書に基づき別府湾海軍空母鳳翔標的艦摂津使用して行われた航行中艦船対す訓練では、九九式双発軽爆撃機に500kg爆弾搭載して、1,000mから急降下させたところ、陸軍軽爆撃機搭乗員ではその後海軍のような海面スレスレ飛行移行できず、なかには急降下惰性海上突っ込む機もあって、陸軍機に500kg爆弾上の大型爆弾搭載し跳飛爆撃は困難であるとして、技術乏しくて可能な特攻開始向けて準備が進むこととなり、のちに、跳飛爆撃訓練行っていた岩本佐々木らはそのまま陸軍特別攻撃隊万朶隊富嶽隊として編成されることとなった同年9月倉澤徳之島での訓練視察したのちに、自ら九九式襲撃機操縦して途中立ち寄った知覧基地離陸した際、100mほど上昇した直後エンジンが突然停止して墜落倉澤頭から計器板につっこみ頭蓋骨骨折重傷負って、さらに雨水脳内浸入したことにより意識不明重体となり、診察した軍医からは「どうせ死ぬから動かすな」とさじを投げられたほどであった手術もせずに病院ベッド寝かされていたが、1週間経って呼吸止まることがなかったので、延命できる可能性出て熊本陸軍病院まで輸送され手術施された。手術担当した軍医は「倉澤少佐はまもなく死ぬか、生きたとしても頭が変になるだろう、左目をやられているからもう操縦は無理だ」と宣告した手術成功したが、一度の手術では足りず1ヶ月後には東京陸軍病院転院し再手術を受け、その後熱海陸軍保養所静養することとなった。 この重傷後遺症倉澤は、生涯頭が割れるよう激し頭痛襲われるようになり、頭痛のときはヒステリックとなって保養所暴れて退所させられた。その後一命取り留めたが、左眼視力極端に落ちパイロットとして活動不可能になった。本来なら予備役行きとなるほどの重症後遺症であったが、これまでの激戦同期航空士官は多く戦死しており、航空士官が不足していたことからそのまま現役残って鉾田復帰した。しかし、復帰してからも頭痛続き上官だろうが誰それ関係なく喧嘩ふっかけるようになって周りからは煙たがられた。この後遺症によるヒステリーは、後年一部特攻隊員対す厳し態度にも現れ、その頭痛和らげるための飲酒常態化するようになった

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