陸軍公主嶺学校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/26 09:50 UTC 版)
陸軍公主嶺学校(りくぐんこうしゅれいがっこう)とは、満州公主嶺にあった大日本帝国陸軍の教育総監隷下の軍学校(実施学校)のひとつである。
- ^ 『陸軍公主嶺学校と星兵団』
- ^ 実質、諸兵種連合のミニ戦略単位である独立混成旅団なのだが、「独立混成」の付かない、兵種名の付かない.ただの「旅団」であるので注意。同じ様な例に「第65旅団」がある。共通点があるとすれば、どちらも、常設の「軍学校教導団」や「第65独立歩兵団」の動員部隊であること。しかしこれだと、「樺太混成旅団」はどうして混成?と言うことになる。法令省令軍令等にも特に当てはまる所がない。
- ^ 憲兵科を除く各兵科は、兵科の中の一つである各兵種となった。(例)これにより、従来は不可能であった、砲兵大尉を歩兵連隊内の歩兵砲中隊長や、連隊砲中隊長への補職が可能となり、転科手続きなく人事行政に断髪力を持たせ、新兵器・新戦術に対応した戦備・戦力拡大図ることが可能となった。
- ^ 戦車は、歩兵科戦車兵から兵科機甲兵となる。
- ^ 乗車騎兵に歩兵出身者の補職も可能となる。
- ^ 挺身兵には、戦車も山砲もあるが航空であったり、船舶兵には、高射砲や野砲もあるが工兵である等、従来の兵科の垣根を跨るものの柔軟運用が可能となった。
- ^ 公主嶺学校の教導業務は、そのまま公主嶺戦車学校教導戦車隊が継続して実施。
- ^ 全陸軍学校長が教育総監部に召集され、総監の山田乙三大将より「爾今国軍の教育訓練の重点を南方対米国軍戦闘に置く」と厳命された。これは、直前にあった陸軍大学校での御前兵棋講演で、陸軍が未だに東部ソ満国境侵攻が主戦略として実施されたのを見聞した天皇が、呆れ苦言を発したものからである。
- ^ 天皇は南東方面、北東方面の玉砕、撤退に多大な危機を感じており、既に1年前より統帥部には夜間の参内構わずの通達済みで、軍服での就寝を行う程危機感を持っていた。それにも関わらず、一体とならない戦略への苦言であった。実際に、この9月より急速に事態は深刻化して行く。そして絶対国防圏の策定を急ぐ結果となる。
- ^ その結果、戦略の整理から、兵器の研究・試作も整理され、物動も整理、再構築を行う。
- ^ 歩兵第126連隊。砲兵・工兵。通信。
- ^ 実戦力である歩兵団司令部と各種兵科の教導部隊を持っていることから、学校側からの発案で動員を計画した。
- ^ 同校は後に移転し四平陸軍戦車学校。さらに同校教導連隊は、教導戦車旅団の戦車第24連隊に改編。教導業務は、そのまま委託継続。
- 1 陸軍公主嶺学校とは
- 2 陸軍公主嶺学校の概要
- 3 教育対象及び期間
- 4 参考文献
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