神風館と伊勢派正風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/27 07:06 UTC 版)
宗因に師事した弘氏は伊勢国に談林派の時代をもたらし、神風館を創立した。弘氏の没後はその子弘員が俳諧に熱心ではなかったため一時途絶したが、芭蕉の晩年の弟子である涼菟が再興した。涼菟は蕉門十哲の一人である支考の弟子乙由とともに伊勢蕉門の中心となり、乙由の麦林舎とあわせて伊勢派と呼ばれるようになった。その後神風館の館号は伊勢蕉門の俳家である4世曾北や5世梅路が名乗り継いだが、12世木蓊は後継者を定めなかった。館号は足代家預かりとなり、国学者であった弘訓は芭蕉の訪問を受けた弘員を2世とし、再興した涼菟を3世として整理を行った。その後丘高が13世を継ぎ、現在も館号は継承されている。 石洲の生家は弘氏や弘員、10世弘臣を輩出した足代家とは縁家にあたる。また石洲の弟子窓月は1950年に石州に立机を乞うて允許され、神風館19世を表明している。しかし石洲は窓月について他の弟子とくらべ技量に劣り、弘氏の流れではないのでこれを自称にすぎないとした。石洲は神風館は17世残雨をもって廃絶したと考えており、窓月の後を継いだ20世孝堂に対しては、立机式を宗匠や連集が不在のまま推挙という手段によって強行したとして、強く非難している。 ^ a b c 季刊連句 第33号 1991, p. 4. ^ 季刊連句 第33号 1991, p. 5. ^ a b 正風俳諧 左義長 1991, p. 143. ^ 俳諧 芭蕉の雫 1956, p. 51. ^ 正風俳諧 左義長 1991,石洲師翁を忍びて ^ 俳文学大辞典 1995, p. 794. ^ a b 俳文学大辞典 1995, p. 441. ^ 俳文学大辞典 1995, p. 45. ^ 正風俳諧 新秋津洲 1980, p. 56. ^ 正風俳諧 新秋津洲 1980, p. 63-64.
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