第二航空艦隊長官
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1944年(昭和19年)6月15日、第二航空艦隊司令長官。 マリアナ沖海戦敗北後の6月19日、第三四一海軍航空隊司令・岡村基春大佐は、福留と参謀長の杉本丑衛大佐に「戦勢今日に至っては、戦局を打開する方策は飛行機の体当たり以外にはないと信ずる。体当たり志願者は、兵学校出身者でも学徒出身者でも飛行予科練習生出身者でも、いくらでもいる。隊長は自分がやる。300機を与えられれば、必ず戦勢を転換させてみせる」と意見具申した。数日後、福留は上京して、岡村の上申を軍令部次長・伊藤整一中将に伝えるとともに、中央における研究を進言した。伊藤は総長への本件報告と中央における研究を約束したが、まだ体当たり攻撃を命ずる時期ではないという考えを述べた。 詳細は「台湾沖航空戦」を参照 7月23日、図上演習で、軍令部は荒天により発着困難な昼間に行うT攻撃を本旨として、機会がない場合は敵の活動が不十分な夜間に攻撃する案を出したが、一方で指揮権を有する第二航空艦隊は、昼間攻撃、薄暮攻撃、T攻撃部隊による夜間攻撃の三者を攻撃部署として各種組み合わせによって第1から第4まで定め、状況に応じてそのいづれかを適用する戦法を示した。これは後日、第六基地航空部隊が規定した戦策に発展したものである。この二航艦が示した作戦実施過程は、索敵の結果以外、作戦指導、戦果報告、損害など台湾沖航空戦と類似した内容であった。また、次期決戦の主力を自負する第二航空艦隊司令部は、たとえ敵来攻方面が第三航空艦隊の担任要域でも二航艦が全基地航空部隊を統一指揮すべきであり、三航艦は支援に回るべきという思想を持っていた。9月、T攻撃部隊の総合教練が行われる。福留はT攻撃の成立を疑問視しており、T攻撃部隊は決戦の一撃に夜間攻撃で使用し、悪天候下に乗じるのは最後の切り札として決行と表明する。連合艦隊司令長官・豊田副武大将は部隊用法については福留に一任し、不能の時は無理をすることはないと話した。 10月10日、那覇空襲を受けて、福留はT攻撃部隊に夜間攻撃を命令するが断念。10月11日、福留は、早朝に索敵を行い、正午に機動部隊を発見すると18時30分、翌日の作戦要領を発令した。T攻撃部隊には「別令に依り黎明以後、沖縄方面に進出し台湾東方海面の敵に対し薄暮攻撃及び夜間攻撃を行う」と意図を明らかにした。この発令で10月12日から台湾沖航空戦が発生し、第二航空艦隊は大戦果を報告した。しかし、暗夜に攻撃を強行したこともあり、後に戦果誤認が発覚する。また、この航空戦で捷号作戦で期待されたT攻撃部隊のほとんどを消耗してしまった。それでも搭乗員80組が残っており、ただちに再編に着手するが、早くても10月末まで回復の見込みがなく、レイテ沖海戦で、第六基地航空部隊は精鋭のT攻撃部隊の活躍を期待できず、練度の低い混成の実働機300機にも及ばない航空兵力を主力として臨まなければならなくなった。 詳細は「神風特別攻撃隊」を参照 フィリピンの戦いに参加。10月22日、第一航空艦隊長官・大西瀧治郎中将から第二航空艦隊も特攻を採用するようにと説得され断ったが、第一航空艦隊の特攻戦果が出た10月25日、第二航空艦隊も特攻採用を決定する。大西は福留に対し「特別攻撃以外に攻撃法がないことは、もはや事実によって証明された。この重大時期に、基地航空部隊が無為に過ごすことがあれば全員腹を切ってお詫びしても追いつかぬ。第二航空艦隊としても、特別攻撃を決意すべき時だと思う」と説得して、福留の最も心配した搭乗員の士気の問題については確信をもって保証すると断言したため、福留も決心し、第一航空艦隊と第二航空艦隊を統合した連合基地航空隊が編成された。福留が指揮官、大西が参謀長を務めた。福留は1944年10月27日第二神風特別攻撃隊を編制して出撃させて以降、次々と特攻隊を送った。 11月16日、福留は中央に対して「航空兵力の現状から各機種共体当たり攻撃を主用するに非ざれば作戦目的達成の算なし」、「陸海を合わし約300機の協力あれば機動空母を制圧撃破しつつ船団を壊滅し得る算あり」、「航空兵力の急速増強を非常措置を以て促進する要ありと思考す」という意見具申電(1GFGB機密第16145番電)を発する。大川内傳七中将も同旨だとして大西を上京させて説明すると打電。11月18日から大西らが中央を説得し、軍令部と海軍省の協議で練習航空隊から零戦隊150機の抽出が決定された。 1945年(昭和20年)1月13日、第十三航空艦隊兼第一南遣艦隊司令長官。2月5日、第十方面艦隊司令長官兼任。8月15日、シンガポールで終戦を迎えた。 戦後、福留はこの戦争について「多年戦艦中心の艦隊訓練に没頭してきた私の頭は転換できず、南雲機動部隊が真珠湾攻撃に偉効を奏したのちもなお、機動部隊は補助作業に任ずべきもので、決戦兵力は依然、大鑑巨砲を中心とすべきものと考えていた」と反省を語っている。
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