戦闘三〇一飛行隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 21:01 UTC 版)
9月25日、第二〇一海軍航空隊に赴任。戦闘三〇一飛行隊の分隊長となった。この戦闘三〇一飛行隊が属する二〇一空は、零式艦上戦闘機を爆戦として運用し、敵艦隊を攻撃しようと計画しており、副長玉井浅一中佐のもとで零戦による急降下爆撃の訓練を行っていた。前任の鈴木は9月22日に爆戦の零戦十数機を自ら率いて出撃しアメリカ軍機動部隊への攻撃を成功させた後、台湾沖航空戦中の10月13日中にも出撃したが航空機の故障で墜落、パラシュート降下して海上に漂ったまま行方不明となっている。艦上爆撃機出身の関が二〇一空に着任したのは、鈴木に続き、零戦を爆戦として運用するための指揮と訓練指導を期待されたからであったが、元々畑違いで、戦闘機乗りとは性格が合わなかった関は部隊で孤立している感じだったという。また、二〇一空の爆戦は急降下爆撃から、より簡単な反跳爆撃に攻撃方法を変更してその訓練を行うこととしたが、関が着任する前にあった「ダバオ誤報事件」後のアメリカ軍の空襲による大損害で、二〇一空の零戦の稼働機はわずか20~30機となっており、これ以上の損失を防ぐために、掩体壕や遮蔽物に隠しておくのがやっとという有様でとても訓練が行えるような状況にはなかった。また、訓練を指導するはずの関も着任直後に酷い下痢となってしまい、ほとんど絶食状態で終日ベットに寝込んでいた。関は顔なじみとなった同盟通信社の記者で海軍報道班員の小野田 政(おのだ・まさし)に、「アメーバー赤痢だ」と話しかけたが、小野田はただでさえ長身で痩せ型の関がホッソリとなってしまったのを見て心配している。 同じ二〇一空の搭乗員の間でも関の印象は薄かったという。関の直属の部下となった、戦闘三〇一飛行隊の佐藤精一郎一飛曹は、関の前任となった隊長の鈴木に「こんど艦爆出身の大尉が来るぞ」と聞かされたので、「何のために来るんですか?」と聞いたところ、「降爆(急降下爆撃)訓練のためではないか」という答えが返ってきている。そして、後日に関が着任したが、「ヒョロッとして目立たない感じの人」と感じ、結局、作戦機の消耗で急降下爆撃の訓練が行われることもなかったので、「戦闘指揮所でたまにみかけるていど」というぐらいの印象しかなかったという。戦闘三〇五飛行隊の先任搭乗員で13機の撃墜記録を持つ上原定夫兵曹長は、着任した関を紹介されたとき「大人しい感じの人、こんな大人しい人で戦争できるのかな」と考え、その後も寡黙であった関とは殆ど会話を交わすこともなく、「軍人というよりむしろ現代でいうシビリアンといった感じの人」という印象だったという。 一方で、航空整備兵で連絡員をしていた永井一朗に対しては、永井の言葉の訛りから同郷だと知ると親しげに接するようになり、また父親が早逝したという境遇も似ていたことから意気投合してよく話していたという。その様子を見ていた他の兵士らから永井は「どうして、関さんとよく話すんだ?」と尋ねられることもあった。同じ二〇一空の戦闘三〇五飛行隊分隊士であった久納好孚中尉と長門達中尉ら学徒出身の予備士官は気安かったことから、兵士からも好かれていたが、関はとっつきにくい印象を持たれていたというが、関は永井だけには特別に士官用の弁当を食べさせたり、支給品の羊羹をあげたりしていた。そんなある日に、関が久納と長門に鉄拳による制裁を加えているのを永井が目撃している。永井は士官が下士官や兵を制裁するのは見慣れていたものの、士官が士官を制裁しているのを見るのは初めてだったので驚いたが、実戦も経験して操縦技術にも秀でていた久納らに対して、関は自分は飛べないという苛立ちを募らせており、それがなにかのきっかけで爆発したのでは、という印象を永井は持ったという。
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