チモシェンコ改革
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1939年11月から1940年3月まで続いた冬戦争の失敗により、ソ連は全力をあげて赤軍の点検と改革を実施した。まず国防人民委員ヴォロシーロフが更迭され、冬戦争で結果を出したチモシェンコが後任に就任した。大粛清以来抑制されていた将校の権威と特権が復活、階級制が再導入され、政治将校の権限が低下し指揮系統が一元化された。また粛清で途絶えた機械化部隊の再建も実施され、新任の機甲兵総監ヤーコフ・フェドレンコ(英語版)中将は機械化軍団の復活を要求。スターリンは8個機械化軍団の創設と、独立戦車師団の追加を了承した。機械化軍団は2個戦車師団と1個自動車化師団から成り、3万人の人員と1000両の戦車を持つ。またハルハ川やフィンランドで功績を上げた有能な将校達が次々と抜擢された。グリゴリー・クリークやキリル・メレツコフ、ヴォロシーロフといった古株の将校は一線をひき、ゲオルギー・ジューコフやミハイル・キルポノスといった新世代の将校が軍の中心にたつことになる。大幅な人事の変更は長期的に見ると大きな利益をもたらしたが、独ソ戦の時点で将校の75パーセントが現職について1年未満だった。1940年12月にはモスクワで高級将校を集めた会議と図上演習が実施された。第1機械化軍団長のロマネンコ中将はトゥハチェフスキーの縦深作戦への回帰を主張し、独立した補給体系と支援体系を持つ機械化軍を創設すべきだと主張した。ロマネンコの主張はクリーク元帥をはじめとする保守派の反発を招き、スターリンは保守派を支持したため、機甲兵力の最大単位は機械化軍団にとどまった。図上演習では対独戦を模した演習が実施され、即時攻勢を主張するパヴロフと守勢を重視するジューコフが戦った。演習は2回ともジューコフの圧勝に終わり、パヴロフ案を支持していたメレツコフは参謀総長を解任され、ジューコフが後任となった。
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