日本軍の先制行動
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1904年(明治37年)2月4日、御前会議で開戦が決定されて陸海軍に対して大命が下り、6日からの作戦発動が命じられた。5日17時に連合艦隊司令長官東郷平八郎は出動命令を受け、6日1時に佐世保に集結していた艦隊の幹部を三笠に集めて打ち合わせを行った。9時に出撃、7日には朝鮮半島北西岸の小青島付近に進出、また陸軍第2師団の第一陣2200人の一部を乗せた運送船3隻の護衛と陸軍の上陸予定地の仁川を抑えるため、第二艦隊第四戦隊(浪速、高千穂、新高、明石)を分派した。 詳細は「仁川沖海戦」を参照 1904年(明治37年)2月6日の朝、連合艦隊は佐世保軍港より出撃、第一戦隊(三笠、朝日、八島、敷島、初瀬、通報艦龍田)は7日に朝鮮半島南岸の九針岩付近でロシア貨物船「ロシア号」を拿捕した。先行してロシア商船「アルグン号」を拿捕した第二戦隊(出雲、吾妻、八雲、常磐、磐手、通報艦千早)と合流し、遅れて第三、第四戦隊、第一・二・四・五駆逐隊も旅順沖へ集合した。
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