日本軍のゲリラ的抵抗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 10:48 UTC 版)
「サイパンの戦い」の記事における「日本軍のゲリラ的抵抗」の解説
サイパン島に残ったわずかな日本軍地上部隊はゲリラ化し、遊撃戦に移行して各個で戦闘を継続した。日本のポツダム宣言受諾後も、その事実を知らない陸海軍将兵は遊撃戦を継続していたが、ポツダム宣言受諾の事実を知り順次投降した。歩兵第18連隊の下士官伊藤末吉は、連隊が壊滅したのちも部下約20人とマッピ岬断崖上にあった松林の樹上に立て籠もった。アメリカ軍も樹上の伊藤らになすすべなく、終戦になってようやく樹上から降りてきて投降したという。 タポチョ山を拠点としていた歩兵第18連隊衛生隊の大場栄陸軍大尉以下47名の部隊は、1945年11月27日(発令は25日)に独立混成第9連隊長の天羽馬八陸軍少将(陸士第23期卒)の正式の命を受け、12月1日、軍歌(彼らの部隊の隊歌と「歩兵の本領」)を歌って戦没者の霊に弔意を示しながら山を降り投降した。彼らは、大本営のサイパン放棄を知らず、必ず友軍がサイパンを奪還に来ると信じていたという。大規模な投降としては最後のものである。なお、歩兵第18連隊主力は1944年5月にグアムに移駐したが、衛生隊ほかは移駐が間に合わず、サイパンの戦いに加わることになっていた。 このほか、空挺部隊により飛行場を攻撃する剣号作戦と、その補助空襲である烈号作戦が計画されたが、実行前に終戦を迎えている。
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