日本軍による軍票の発行
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「中華民国期の通貨の歴史」の記事における「日本軍による軍票の発行」の解説
このように、世界の流れが中国法制改革を支持し、「法幣」が定着してきたので、中国で営業する日系金融機関もやむなく銀の提供と「法幣」の受け入れを検討し始めた。のみならず、大蔵官僚であり支那派遣軍特務部の嘱託であった毛利英於菟(ひでおと)は、「西安事件を契機として支那幣制及び北支幣制対策確立に関する意見」という意見書をまとめている。その中で彼は、「西安事件(1936年12月12日に蔣介石に内戦停止を説いて拒絶された張学良が兵を動かして蔣を監禁した事件)以降の中国は「挙国一致」が進み、幣制改革も最終段階に入り、中央銀行の改組が具体化されるだろう。今まで日本は、現銀を国民政府に引き渡すことを拒絶していたが、これを改め、中国の貨幣統一を受け入れ、両国の貨幣価値の安定化を図るべきだ」と唱えた。 しかし、その矢先の1937年(民国26年)7月7日、盧溝橋事件が勃発し、日中が全面戦争に突入した。これ以降、日本軍が占領した華北地方には「華北連合銀行」を、上海でも「中華民国維新政府」が「華興商業銀行」を設立し、「法幣」を排除し、独自通貨を発行した。また日本軍は、華中・華南の占領地には、「軍用手票」(軍票)を発行して、流通させた。しかし、「華北連合銀行」は資金力が弱く「華北連合銀行券」は、英ポンドと米ドルのしっかりとしたサポートを受けていた国民党発行の「法幣」にはかなわなかった。また上海の「華興商業銀行券」も上海の一部でしか使えなかった。1938年(昭和13年)には華北連合銀行が中国聯合準備銀行と行名を改めるが、日本による法幣駆逐作戦は結局挫折した。 「軍用手票#日本の軍票シリーズ」も参照 一方、蔣介石の国民党から分かれた対日和平派の汪兆銘による南京政府は、1939年(民国28年)5月に「中央儲備銀行」を設立し、「儲備券」を発行し、連合銀行券とともに普及を図り、「法幣」の排除を試みたが、苦戦した。「儲備券」は乱発され、価格は下落し、荒縄で1メートルほどの厚さに束ねられて使われていたという。 詳細は「中央儲備銀行#概要」および「中国聯合準備銀行#概要」を参照 八方ふさがりの日本軍は、結局、現地での食糧や資材の調達のための、より手っ取り早い手段である「軍票」の発行による食料・資材の半強制的な現地調達、即ち富の収奪に走った。「軍票」とは、軍部が出す借用証書(擬似紙幣)である。日本軍は、日露戦争(1894年-1895年)のときに初めて、これを発行し、以来対外戦争のつど発行してきた。「軍票」が軍部の出す借用証書に過ぎない以上、他の信用度の高い通貨、当時では「法幣」や「日本銀行券」との交換を保証しなければただの紙切れに過ぎない。そのため時々は、これらと交換しないと、信用力が保てず、通用しなくなる。従って、ときに交換に応ずる必要があったが、日本軍は交換財源として、占領した上海税関の資金をこっそりと流用したという。それでも「軍票」や「儲備券」は、広大な中国のうち、日本軍の占領した都市とそれらを結ぶ鉄道沿線以外では、見向きもされなかった。軍事力で実効支配できない農村部などではコメを「法幣」で買い付けるしかないが、その「法幣」も手元にない。日本軍票や日系銀行券で食糧や資材を現地調達できないとなると、ますます軍事力による強制徴用しかない。貴重な物資が抗日勢力に流出するのを腕ずくで止めるしかないため、戦線はますます拡大した。1938年には広東を占領した後、1940年7月には中国の長大な沿岸封鎖に取り掛かった。内陸部では村落を囲い込み、ますます残虐さと苛酷さを増した作戦を展開した。国民革命軍と共産党軍を掃討したあと、村落の住民を組織して課税・徴用した。これを「清郷工作」と呼んだ。電流の流れる鉄条網で囲い、人と物資の移動を厳重にチェックし、それに加え大東亜共栄圏の「東亜新秩序」という思想教育を行った。 詳細は「日中戦争#漢口・広東攻略」および「東亜新秩序#内容」を参照 「燼滅作戦#中国共産党の報復清野を奨励する方法」および「皖南事変#結果」も参照
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