日本軍による紙幣偽造
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「中華民国期の通貨の歴史」の記事における「日本軍による紙幣偽造」の解説
1938年(昭和13年)1月16日、近衛内閣は、「国民政府を相手とせず」との内閣声明を出し、自ら和平の道を絶ち、5月26日の五相会議で、「五相会議に属し、其の決定に基づき、専ら重要なる対支謀略並びに新支那中央政府樹立に関する実行機関」としての「対支特別委員会」が設けられることになった。ここから日中戦争の打開策として本格的な対支謀略作戦が展開されることになった。 その具体化として6月28日には、「時局ニ伴フ対支謀略」の原案が決定された。この謀略の方針は、一つは政治謀略として親日派による政権樹立をはかり、もう一つは経済謀略によって蔣介石政権の崩壊を図ろうとするものであり、この二つは連動すべきものとされた。そして、方針の具体策の第5として「法幣の崩落を図り、支那の在外資金を取得することにより、支那現中央政府を財政的に自滅せしむ」ことがあげられていた。1938年12月ごろ「対支経済謀略実施計画」(秘匿名「杉計画」)がまとめられた。神奈川県川崎市(旧・生田村)にあった陸軍第九研究所(別名登戸研究所)に、山本憲蔵大佐を製造責任者とする法幣の偽造チームが集まった。上海には偽造した通貨を使用する役割の「松機関」が置かれた。 「登戸研究所#研究・開発された兵器」も参照 法幣偽造作戦は、陸軍省と参謀本部が指揮した国家プロジェクトであった。1940年(昭和15年)にはドイツ・ザンメル社製の高価な印刷機を購入して、通貨偽造工場を完成させ、1941年(昭和16年)から本格的に量産を始めた。地元神奈川県の女子生徒を集め、新品の偽札に汚れや皺を付けさせた上で上海に運び、金塊、貴金属、食糧などを買い付けた。1942年(昭和17年)には日本軍が占領した香港の紙幣印刷工場で法幣の原版を発見し、これをもとに本物そっくりの偽札を量産できるようになった。この年の夏ごろから大量の偽造紙幣が印刷できるようになり、長崎を経由して上海に運ばれて、その額面は毎月1億円から2億円にのぼった。国民党政府も「法幣」を大量発行しており、通貨価値は下がり続けていた。発行額は、戦争開始直前の1937年6月には14億元だったのが、1948年8月には660億元となった。この法幣の乱発と、偽造通貨とがあいまって、日中戦争後の中国経済を大混乱に陥れ、国民党から民心を離反させる一因となった。 詳細は「法幣#日中戦争から崩潰へ」を参照
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