日本軍による攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/19 08:27 UTC 版)
1939年春、日本軍は南昌攻略のため増強された部隊で侵攻を開始した。3月20日、岡村寧次司令官が直接指揮を取る砲兵部隊が修水の中国軍防御陣地を砲撃。この砲撃は200門余りの重砲を有する部隊が三時間に渡って行ったもので、日中戦争時の日本軍としては最大の規模を誇った。また修水の陣地へ、日本軍は化学兵器を使用した。ガス弾であるあか弾が一万発以上用意され、そのうち相当数使用されたと言われている。その後砲兵と戦車によって支援された日本軍は、修水の渡河に成功した。 3月26日までに、日本軍は修水に確保した橋頭堡から南昌西門にまで侵攻した。この時、戦車によって支援された日本軍は第三戦区からの中国の援軍を撃破している。その後岡村寧次の部隊は南昌の北から南に向かっている別の日本軍の連隊と合流し、南昌の包囲攻撃を開始。翌日、中国側が大損害を被り南昌の街は陥落した。日本軍は4月まで南昌周辺の農村地帯の抵抗戦力の掃討を行った[要出典]。
※この「日本軍による攻撃」の解説は、「南昌作戦」の解説の一部です。
「日本軍による攻撃」を含む「南昌作戦」の記事については、「南昌作戦」の概要を参照ください。
- 日本軍による攻撃のページへのリンク