アジアにおける勝利と大英帝国の没落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 10:08 UTC 版)
「ウィンストン・チャーチル」の記事における「アジアにおける勝利と大英帝国の没落」の解説
「V-Eデー」によりアジアを除く戦前の大英帝国は全て戻り、新たに北アフリカ全域、レヴァント地方、イランがイギリス軍の占領下に置かれていた。地中海の支配権も戦前以上に強力にイギリスが握っていた。さらにイギリス軍はドイツとイタリアとオーストリアを分割占領していた。チャーチルはそれをもって大英帝国衰退論を否定し、「大英帝国はそのロマンティックな歴史上、いつの時代よりも強力になっている」と宣言した。 しかしそれは幻想だった。ビルマにおける日本軍との戦いは終わりに近づいていたものの、未だにマレー半島やシンガポール、香港などの旧植民地は日本軍の占領下にあった上に、これらのアジアの植民地におけるイギリスの権威は完全に失墜していた。さらにもはやイギリスには大英帝国を維持する力もなくなっており、実際にこの後10年程度の間に、インドやセイロン、マレー半島やパレスチナ、スーダンなど帝国の多くの地域が独立した。 さらにイギリスの海外投資は戦前の4分の1に激減し(ケインズの試算によると、日本軍による攻撃以外に本土に対する攻撃を受けなかったアメリカの損失の35倍とされる)、イギリスの産業・貿易は衰退、国民生活は困窮した。武器貸与法は失効し、米英借款協定(Anglo-American_loan)によって物資をローンで購入したせいで80億ポンドの負債を抱えることになったうえ、イギリスの工業産業は事実上兵器産業だけになってしまい、もはや世界の覇権国の地位をアメリカに奪われるのを防ぐ手段はなかった。 勇ましい言葉で自国の力を誇示しながら、チャーチル自身も大戦中から自国の没落を肌で感じ取っていた。テヘラン会談の際に「我々が小国に堕ちたことを思い知らされた。会談にはロシアの大熊、アメリカの大牛、そしてその間にイギリスの哀れなロバが座っていた」と秘書に漏らしている。 自国の没落に加えてチャーチルが不安だったのは、スターリンの台頭であった。1945年4月に、スターリンと仲よしのルーズベルトの死でアメリカ政府もようやく共産主義を危険視するようになったものの、すでに手遅れな感があり、東ヨーロッパの大半はスターリンの支配下に堕ちていた。チャーチルは回顧録の中で「第二次世界大戦の長い苦悩と努力の末に実現されたことは、一人の独裁者(ヒトラー)が、他の独裁者(スターリン)に代わっただけであった」と書いている。
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