救援部隊の出動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 08:50 UTC 版)
ハバロフスクの革命委員会は、日本軍と共同で戦闘中止要請をした手前もあり、トリャピーツィンに状況の説明を求めた。それに応じてトリャピーツィンは、電報を打った。さらに後日、参謀長ニーナ・レベデワと連名で、モスクワをはじめ、イルクーツク、チタ、ウラジオストク、ブラゴヴェシチェンスク、ハバロフスク、アレクサンドロフスク、ペトロパブロフスクなど、各地へ、長文の声明文を打電したが、内容の骨子は、最初のものと似たものだった。 長文の声明の冒頭は、「ニコラエフスク管区赤軍本部は、ここに、ニコラエフスク・ナ・アムーレにおける日本軍による攻撃という血なまぐさい事件を、全ての者に報告する。さらに、事件の詳細および事件に先立つ諸事情についても、情報提供する。それによって、我々との平和協定締結後に、ソビエト赤軍に対し背信的攻撃を加えた、日本軍の裏切り行為と犯罪の本性が、明確に暴露されるであろう」というもので、さらに、「日本人居留民の全員が武装し」、「兵舎に立てこもった130名の日本軍が白旗を揚げて武器を放棄したので捕虜として捕らえた」以外は、「武器を取った日本人のほとんどが戦死した」とあった。ちなみに、赤軍側の死者は50名、負傷者は100名以上としている。 最初に、トリャピーツィンの電文の現物に接したのは、ペトロパブロフスクの塩田領事館事務代理で、3月18日、「電文を見たところ、ニコラエフスクで戦闘があり、在留民およそ700名が殺され、100名が負傷し、司令部、領事館、その他邦人家屋はすべて焼き払われたのではないか」と、内田外務大臣に打電した。21日には、トリャピーツィンの電文がウラジオストクの新聞に載り、それを見た海軍第5戦隊司令官より海軍省へも、ニコラエフスクにて異常事態発生の連絡があった。 その後、当局が各方面から情報を集め、早急な救援隊の派遣が決定された。まずは、すでに2月、第7師団より編成されていた増援隊を、アレクサンドロフスクへ派遣して、解氷を待つこととした。この部隊は、多門二郎大佐率いる歩兵1大隊、砲、工兵各1中隊、無線電信隊1隊で、主に北海道で編成されていた。4月16日、多門隊は、小樽を出発し、軍艦三笠と見島の援護のもと、22日にアレクサンドロフスクへ上陸した。 当局はさらなる情報収集を行ない、多門隊のみでは兵力不足だと認定した。第7師団からの歩兵1連隊を基幹とし、多門隊も含めて、津野一輔少将の下、北部沿海州派遣隊が編成された。多門隊は、5月13日にデカストリに上陸し、津野隊は、5月下旬に小樽を発した。津野隊とともに、海軍第三艦隊の主力(司令長官野間口兼雄中将)と第3水雷戦隊(司令官桑島少将)が、直接、ニコラエフスクへ向かった。一方、ハバロフスクの第14師団は、できるかぎりの兵力を集め、国分中佐の指揮下、海軍臨時派遣隊(中村少将指揮)の砲艦3隻の護衛を受け、5月14日にハバロフスクを出て、アムール川を下った。途中、ラプタの指揮するおよそ200の赤軍部隊を破り、25日、多門隊と合流して、ニコラエフスクをめざした。多門隊のニコラエフスク進入は、6月3日だったが、すでにそのときニコラエフスクは、遺体が散乱する焦土となっていた。
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