救済の動機にまつわる謎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 23:45 UTC 版)
「ハンナ・リデル」の記事における「救済の動機にまつわる謎」の解説
最初にリデルの伝記を書いたのは、事務長を務めた飛松甚吾である。彼は神戸の税関に勤務したことがあり英語が達者であった。望んでリデルの下で勤務した。しかし、不思議なことをたくさん書いている。最初に本妙寺で患者をみたのは1890年(明治23年)4月3日とある。しかし来日は1891年(明治24年)である。新しく調査し、1995年にリデルの伝記を書いたジュリア・ボイドは、1891年12月1日の本部への手紙に書かれているが、4月1日は大阪にいて、長崎によらねばならないので、同年4月3日はあり得ないと主張している(なお、当時の外国人は日本において、3カ月の旅行免状しか持たず、それを過ぎると領事館(一番近い所で長崎)に旅行免状を再交付しなければならなかった。当時は熊本―長崎間の鉄道も開始されておらず、旅行は大変であった)。そして、皆を説得することができて、その後の仕事がうまくいくなら、作り話でもいいとしている。後の調査でも同行しているとされる本田教授はその年には着任していないし、また新聞記事による天候の調査も、リデルの作り話説に加担している。即ち、天候が書かれた通りであると明治26年しか合致しない。しかし、猪飼隆明は花見をしたのは明治24年4月3日としている。しかし書かれている事が全部真実であるとは考えていない。これらの問題が真剣に論じられたのはジュリア・ボイドの本の発行後である。
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