救済の哲学の開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 06:37 UTC 版)
「フィリップ・マインレンダー」の記事における「救済の哲学の開発」の解説
マインレンダーの富裕な両親は1861年に彼の兵役を金で免除させたが、彼は自伝において、"全てにおいて完全に何かに服従すること、最低の仕事をすること、盲目的に服従せねばならぬこと"への願望があったことを記しており、また、軍務に服するための数多くの試みを周到に企てた。1874年4月6日、既に32歳となったマインレンダーはヴィルヘルム1世に直接懇願したが、これは認められ、ハルバーシュタット(Halberstadt)の胸甲騎兵として9月28日から働くことになった。徴兵までの4か月の間に、マインレンダーは取り付かれたように著作活動に打ち込み、彼の中心的著書『救済の哲学』の第1巻を完成させた。 彼は完成した原稿を姉のミナに渡し、軍務に服している間に出版社を探してくれるよう頼んだ。原稿には未だ知らぬ出版社に対しての手紙を付し、その中において、匿名での出版を希望すること、そしてそれは「世界中の目に晒されること」を忌み嫌っているだけに過ぎないということを記した。 1875年11月1日、マインレンダーは、姉のミナへの手紙の中で述べているように、「疲れ果てた、本当に疲れた……完全に……健康な身体が、言葉では言い表せないほど疲れた」ため、本来は3年間の軍役のはずだったが、わずか1年で軍を辞め、故郷のオッフェンバッハに戻った。彼はそこで再び著作活動に取りつかれ、わずか2か月の内に未製本の『救済の哲学』を校正し、回想録や中編小説『Rupertine del Fino』を書きあげ、そして650ページにおよぶ『救済の哲学』第2巻を完成させた。 1876年2月からマインレンダーの精神的衰弱が顕著になる。ついには誇大妄想狂になり、自身を社会民主制の救世主だと信じ込む。同年4月1日の夜、マインレンダーはオッフェンバッハの自宅で、前日に出版社から届いた『救済の哲学』を山積みにして壇にし、首を吊って自殺した。34歳であった。
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