日本軍による攻撃計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 11:55 UTC 版)
第二次世界大戦時、大日本帝国海軍にはパナマ運河攻撃計画が存在した。1942年2月から9月にかけて日本海軍の潜水艦によって行われたアメリカ本土砲撃と、その艦載機によるアメリカ本土空襲が行われた際に検討されたことがあるが、この際にはアメリカ本土への攻撃が優先されたため、結果的に検討されたのみであった。 これらの作戦が行われると同時に、大日本帝国海軍は更なる本格的なアメリカ本土攻撃を目的に、特殊攻撃機晴嵐を3機搭載した伊四〇〇型潜水艦からなる潜水艦の建造を進めた。しかし、1945年に入ると同盟国であるドイツ国の艦隊が壊滅状態になったため、不要となったイギリスやアメリカなどの大西洋で活動していた艦船の太平洋への回航が予想され、この回航を少しでも遅らせるために、これらの潜水艦とその艦載機でパナマ運河を攻撃することを計画した。 その後、アメリカ軍の爆撃機による日本本土空襲が本格化したため、これらに対する報復を目的に再度アメリカ本土攻撃に主目標が変更された上に、伊四〇〇号型潜水艦2隻が完成した後の1945年3月に沖縄戦が始まったことなどにより結局このパナマ運河攻撃計画は破棄され、最終的に南太平洋のウルシー環礁の連合軍艦隊の泊地へ攻撃目標を変更した。作戦遂行に向けて展開中の8月15日に同諸島沖合で終戦を迎え、その後、伊四〇〇型潜水艦はアメリカ軍により標的処分および自沈・解体され姿を消した。 この運河攻撃計画を実行するに当たり、日本軍はパナマ運河建設に関わった青山士に運河の写真、設計図の拠出を要求したが、青山は「私は運河を造る方法は知っていても、壊す方法は知らない」と述べたエピソードがある。 なお第二次世界大戦中、アメリカ海軍の艦艇はパナマックスサイズで建造されている。これは、大西洋から太平洋戦線、またはその逆の転戦を容易にする為の措置であり、パナマ運河の軍事的要衝の証明である。 1950年8月4日、連合国軍最高司令官総司令部は1941年から禁止していた日本船の運河航行を許可した。
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