建造から練習部隊とは? わかりやすく解説

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建造から練習部隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 14:41 UTC 版)

杉 (松型駆逐艦)」の記事における「建造から練習部隊」の解説

仮称艦名、5487号艦。1944年昭和19年2月25日藤永田造船所起工6月5日、「」と命名される。同5日付で駆逐艦3隻()は松型駆逐艦類別された。7月3日進水7月15日重巡那智水雷長の菊池敏隆少佐艤装員長補職される。8月25日竣工佐世保鎮守府籍。同25日付で菊池艤装員長制式駆逐艦長となった艤装事務所撤去する就役後訓練部隊第十一水戦隊司令官高間少将海軍兵学校41期) に編入された。8月25日時点十一水戦旗艦駆逐艦であった軽巡洋艦多摩」の十一水戦編入により、8月30日から「多摩」が旗艦となった。「」は大阪出発して瀬戸内海回航された。これ以降10月中旬まで十一水戦僚艦や、内海西部所在だった第二遊撃部隊と、訓練をおこなう。 10月15日小沢治三郎中将は「秋月」と「」に対し鹿児島への緊急弾薬輸送を行うよう命じた10月16日朝、小沢長官秋月型駆逐艦2隻(若月涼月)に対し台湾高雄への第六五三海軍航空隊人員基地物件輸送命じた。同16日午後2時、秋月駆逐艦長指揮する2隻(秋月)は呉を出発した同日夜、九州都井岬沖合航行中の2隻(若月涼月)をアメリカ潜水艦ベスゴ襲撃被雷した「涼月」は艦首失った10月17日午前6時30分、小沢長官は「涼月」の呉帰投と「」への物件移載、さらに若月駆逐艦長指揮による「若月」と「」の台湾輸送命じた。これに対し連合艦隊は「若月」と「涼月」を鹿児島入港させ、練習巡洋艦鹿島」と第30駆逐隊夕月卯月)に物件を移すよう命じた。同17日正午、「秋月」と「」は鹿児島到着した。そのころ南西方面では、アメリカ軍フィリピンレイテ湾スルアン島上陸開始した日本海軍捷一号作戦警戒発令した。3隻(若月涼月)に対す台湾輸送命令取り消された。実際に高雄輸送おこなったのは3隻(鹿島夕月卯月)だった。 10月18日夕刻日本軍捷一号作戦発動した。この作戦第三艦隊司令長官小沢治三郎中将海兵37期)が率い機動部隊が囮となって第38任務部隊マーク・ミッチャー中将)をひきつけ、その隙に第二艦隊司令長官栗田健男中将海兵38期)率い第一遊撃部隊通称栗田艦隊 」または「 栗田部隊 」)がレイテ湾突入しアメリカ軍の上陸部隊撃破するというものであった小澤機動部隊護衛第二遊撃部隊第五艦隊)が担当していたが、台湾沖航空戦の「残敵掃討」に投入されてしまった。このため第三航空戦隊第四航空戦隊警戒兵力不足し連合艦隊内地所在第十一水戦隊から軽巡多摩」と本艦を、対潜掃蕩部隊第三十一戦隊から一部兵力を、機動部隊編入した。高間少将十一水戦旗艦を「多摩」から駆逐艦」に変更し内地残った。四航戦のうち空母隼鷹」と「龍鳳」は搭載する航空隊がなく、出撃しなかった。出撃各艦は内地残留の「隼鷹」から燃料補給した10月20日夕刻空母4隻と航空戦艦2隻を基幹とする小沢機動部隊豊後水道出撃した。22日、「」は空母千歳」から重油洋上補給を行う。23日午前より、小沢機動部隊対潜警戒を主とした第一警戒航行序列から、対空警戒を主とした輪形陣切り替えた輪形陣は、第五群(瑞鶴瑞鳳伊勢大淀多摩初月秋月若月)と、第六群(千代田千歳日向五十鈴霜月)にわかれていた。 翌10月24日上空警戒にあたっていた「瑞鶴」の零戦1機が着艦失敗して海上墜落し「桐」と「」が捜索を行う。この分離について『戦史叢書56巻240ページでは「小沢長官瑞鶴)は燃料不足になった付し台湾高雄退避させた」と記述している。捜索後、同24日深夜には第四航空戦隊日向伊勢)及び秋月型駆逐艦4隻(初月若月秋月霜月からなる機動部隊前衛部隊「桐」と「」は再合流前衛部隊後続する事とした。しかし同時刻に上空飛行していた空母インディペンデンス所属夜間哨戒機発見し同機発した無線通信艦内電話混線した事などもあり、駆逐艦長川畑少佐この前部隊米軍機部隊であると誤認型2隻()で反転離脱する事となった。その後「桐」は「燃料余裕がない」との機関長進言もあって高雄向かい、「」もこれに同行している。23時53分、小沢長官は「前衛(四航戦)と本隊合同せよ。奄美大島補給した上で合同せよ」と命じた。この命令があったものの、「桐」と「」は機動部隊と再合流できなかった。このため2隻とも10月25日エンガノ岬沖海戦参加していない。10月26日午前9時30分に高雄市到着つづいて奄美大島向かい29日着。補給部隊タンカー「たかね丸」(日本海運10,021トン)から200トン重油補給してもらった特務艦室戸」の生存者158名を乗せ「桐」とともに10月29日奄美大島出港し、翌10月30日に呉に帰投した。「と共に出撃した十一水戦軽巡多摩」はアメリカ潜水艦ジャラオに撃沈され、全乗組員戦死した

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建造から練習部隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/20 04:12 UTC 版)

樫 (松型駆逐艦)」の記事における「建造から練習部隊」の解説

一等駆逐艦丁型仮称艦名5490号艦として、藤永田造船所建造1944年昭和19年5月5日起工6月20日、「」と命名される。同20日付で駆逐艦4隻()は松型駆逐艦類別された。8月10日付で、重巡洋艦妙高水雷長の黒木俊思郎少佐は、艤装員長任命される8月13日進水9月30日竣工佐世保鎮守府籍。黒木艤装員長制式駆逐艦長となった就役後訓練部隊第十一水戦隊編入される瀬戸内海回航され、訓練従事した10月10日第38任務部隊マーク・ミッチャー中将)が沖縄台湾方面来襲日本軍の反撃により台湾沖航空戦繰り広げられた。連合軍の攻勢対し捷号作戦警戒態勢がとられ、10月12日から14日にかけて徳島海軍航空隊にいた第四航空戦隊第六三四海軍航空隊要員移動させる任務に就く。また連合艦隊台湾沖航空戦の「残敵掃討」に第五艦隊基幹とする第二遊撃部隊投入した結果小沢機動部隊警戒兵力不足する。そこで内地所在第三十一戦隊十一水戦一部兵力機動部隊編入されたが、「」は編入されなかった。

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