建造から練習部隊
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「杉 (松型駆逐艦)」の記事における「建造から練習部隊」の解説
仮称艦名、5487号艦。1944年(昭和19年)2月25日、藤永田造船所で起工。6月5日、「杉」と命名される。同5日付で駆逐艦3隻(杉、槇、樅)は松型駆逐艦に類別された。7月3日、進水。7月15日、重巡那智水雷長の菊池敏隆少佐は杉艤装員長に補職される。8月25日、竣工。佐世保鎮守府籍。同25日付で菊池艤装員長は制式に杉駆逐艦長となった。艤装員事務所を撤去する。 就役後、訓練部隊の第十一水雷戦隊(司令官高間完少将・海軍兵学校41期) に編入された。8月25日時点の十一水戦旗艦は駆逐艦「桑」であった。軽巡洋艦「多摩」の十一水戦編入により、8月30日から「多摩」が旗艦となった。「杉」は大阪を出発して瀬戸内海に回航された。これ以降、10月中旬まで十一水戦僚艦や、内海西部所在だった第二遊撃部隊と、訓練をおこなう。 10月15日、小沢治三郎中将は「秋月」と「杉」に対し、鹿児島への緊急弾薬輸送を行うよう命じた。10月16日朝、小沢長官は秋月型駆逐艦2隻(若月、涼月)に対し、台湾高雄への第六五三海軍航空隊人員と基地物件輸送を命じた。同16日午後2時、秋月駆逐艦長が指揮する2隻(秋月、杉)は呉を出発した。同日夜、九州都井岬沖合を航行中の2隻(若月、涼月)をアメリカ潜水艦ベスゴが襲撃、被雷した「涼月」は艦首を失った。 10月17日午前6時30分、小沢長官は「涼月」の呉帰投と「杉」への物件移載、さらに若月駆逐艦長の指揮による「若月」と「杉」の台湾輸送を命じた。これに対し連合艦隊は「若月」と「涼月」を鹿児島に入港させ、練習巡洋艦「鹿島」と第30駆逐隊(夕月、卯月)に物件を移すよう命じた。同17日正午、「秋月」と「杉」は鹿児島に到着した。そのころ南西方面では、アメリカ軍がフィリピン、レイテ湾のスルアン島に上陸を開始した。日本海軍は捷一号作戦警戒を発令した。3隻(若月、涼月、杉)に対する台湾輸送命令は取り消された。実際に高雄輸送をおこなったのは3隻(鹿島、夕月、卯月)だった。 10月18日夕刻に日本軍は捷一号作戦を発動した。この作戦は第三艦隊司令長官小沢治三郎中将(海兵37期)が率いる機動部隊が囮となって第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)をひきつけ、その隙に第二艦隊司令長官栗田健男中将(海兵38期)率いる第一遊撃部隊(通称「 栗田艦隊 」または「 栗田部隊 」)がレイテ湾に突入しアメリカ軍の上陸部隊を撃破するというものであった。 小澤機動部隊の護衛は第二遊撃部隊(第五艦隊)が担当していたが、台湾沖航空戦の「残敵掃討」に投入されてしまった。このため第三航空戦隊と第四航空戦隊の警戒兵力が不足し、連合艦隊は内地所在の第十一水雷戦隊から軽巡「多摩」と本艦を、対潜掃蕩部隊の第三十一戦隊から一部兵力を、機動部隊に編入した。高間少将は十一水戦旗艦を「多摩」から駆逐艦「檜」に変更し、内地に残った。四航戦のうち空母「隼鷹」と「龍鳳」は搭載する航空隊がなく、出撃しなかった。出撃各艦は内地残留の「隼鷹」から燃料を補給した。 10月20日夕刻、空母4隻と航空戦艦2隻を基幹とする小沢機動部隊は豊後水道を出撃した。22日、「杉」は空母「千歳」から重油の洋上補給を行う。23日午前より、小沢機動部隊は対潜警戒を主とした第一警戒航行序列から、対空警戒を主とした輪形陣に切り替えた。輪形陣は、第五群(瑞鶴、瑞鳳、伊勢、大淀、多摩、初月、秋月、若月、杉、桐)と、第六群(千代田、千歳、日向、五十鈴、霜月、槇、桑)にわかれていた。 翌10月24日、上空警戒にあたっていた「瑞鶴」の零戦1機が着艦に失敗して海上に墜落し、「桐」と「杉」が捜索を行う。この分離について『戦史叢書56巻』240ページでは「小沢長官(瑞鶴)は燃料不足になった桐に杉を付し台湾高雄に退避させた」と記述している。捜索後、同24日深夜には第四航空戦隊(日向、伊勢)及び秋月型駆逐艦4隻(初月、若月、秋月、霜月)からなる機動部隊前衛部隊に「桐」と「杉」は再合流、前衛部隊に後続する事とした。しかし同時刻に上空を飛行していた空母「インディペンデンス」所属の夜間哨戒機を発見し、同機の発した無線通信が艦内電話に混線した事などもあり、桐駆逐艦長川畑誠少佐はこの前衛部隊を米軍機動部隊であると誤認、松型2隻(桐、杉)で反転離脱する事となった。その後、「桐」は「燃料の余裕がない」との機関長の進言もあって高雄に向かい、「杉」もこれに同行している。23時53分、小沢長官は「前衛(四航戦)と杉は本隊に合同せよ。桐は奄美大島で補給した上で合同せよ」と命じた。この命令があったものの、「桐」と「杉」は機動部隊と再合流できなかった。このため2隻とも10月25日のエンガノ岬沖海戦に参加していない。10月26日午前9時30分に高雄市到着、つづいて奄美大島に向かい29日着。補給部隊のタンカー「たかね丸」(日本海運、10,021トン)から200トンの重油を補給してもらった。特務艦「室戸」の生存者158名を乗せ、「桐」とともに10月29日に奄美大島を出港し、翌10月30日に呉に帰投した。「杉」と共に出撃した十一水戦の軽巡「多摩」はアメリカ潜水艦ジャラオに撃沈され、全乗組員が戦死した
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建造から練習部隊
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「樫 (松型駆逐艦)」の記事における「建造から練習部隊」の解説
一等駆逐艦(丁型)仮称艦名5490号艦として、藤永田造船所で建造。1944年(昭和19年)5月5日、起工。6月20日、「樫」と命名される。同20日付で駆逐艦4隻(樫、榧、檜、楓)は松型駆逐艦に類別された。8月10日付で、重巡洋艦「妙高」水雷長の黒木俊思郎少佐は、樫艤装員長に任命される。8月13日、進水。9月30日、竣工。佐世保鎮守府籍。黒木艤装員長は制式に樫駆逐艦長となった。 就役後、訓練部隊の第十一水雷戦隊に編入される。瀬戸内海に回航され、訓練に従事した。10月10日に第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)が沖縄、台湾方面に来襲、日本軍の反撃により台湾沖航空戦が繰り広げられた。連合軍の攻勢に対し捷号作戦警戒態勢がとられ、10月12日から14日にかけて徳島海軍航空隊にいた第四航空戦隊、第六三四海軍航空隊の要員を移動させる任務に就く。また連合艦隊が台湾沖航空戦の「残敵掃討」に第五艦隊を基幹とする第二遊撃部隊を投入した結果、小沢機動部隊の警戒兵力が不足する。そこで内地所在の第三十一戦隊や十一水戦の一部兵力が機動部隊に編入されたが、「樫」は編入されなかった。
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