建造から船出まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 15:05 UTC 版)
「サン・ファン・バウティスタ号」の記事における「建造から船出まで」の解説
仙台藩の藩祖である伊達政宗は、江戸時代の慶長年間に、スペインの宣教師ルイス・ソテロや家臣の支倉常長を使節としてスペインおよびローマへ派遣した。これが慶長遣欧使節である。使節は、外国との貿易を実現するための交渉を目的としていた。慶長遣欧使節が日本を出発したのは1613年10月(慶長18年9月)だが、これ以前の1611年(慶長16年)には海外貿易や造船の構想がすでにあったらしい。 この計画のために建造されたのがサン・ファン・バウティスタ号である。この船は仙台藩が所有するものだったが、スペインの技術で建造された。建造に当たっては、仙台藩とスペイン人のセバスティアン・ビスカイノの間で契約が結ばれた。ビスカイノはスペイン大使として日本を訪れ、政宗の知己も得ていたが、日本からの帰路で乗っていたサンフランシスコ号が大破し、帰国できないでいた。仙台藩とビスカイノの間で交わされた契約の内容は、政宗が造船の費用や船員の俸給を負担すること、ビスカイノが船の指揮を取ること、ビスカイノの商品の積み込みを許すこと、などである。仙台藩の船奉行として秋保頼重(刑部)と河東田親顕(縫殿)が造船に携わり、幕府の船奉行向井忠勝(将監)もこれに協力した。また、船の建材については気仙郡、磐井郡、江刺郡、本吉郡から調達された。慶長遣欧使節に同行したシピオーネ・アマチによれば、船の建造には大工800人、鍛冶700人、雑役3,000人が関わり、45日を要したという。 造船地と出航地については、史料『政宗君記録引証記』に収められている真山正兵衛の「真山記」に「遠島月浦」とあることから、牡鹿郡月浦がサン・ファン・バウティスタ号の建造地であり、出帆地であると見られている。この他にも、伝承や史料の読み替えにより、現在の宮城県石巻市雄勝町雄勝呉壺を造船地および出航地とする見解もあるが、この見解は牡鹿郡月浦を覆すほどの精度を持ち合わせていないと考えられている。
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