建造から開戦まで
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「叢雲 (吹雪型駆逐艦)」の記事における「建造から開戦まで」の解説
1927年(昭和2年)4月25日、藤永田造船所で起工された。翌26日、第39号駆逐艦の艦名が与えられた。1928年(昭和3年)8月1日、叢雲と改名され、9月27日に進水、1929年(昭和4年)5月10日に竣工した。同型6-8番艦の東雲、白雲、薄雲は前年7月に竣工しており、叢雲が第二艦隊第二水雷戦隊の第12駆逐隊に編入されて雲級4隻が揃った 。他の3隻は駆逐隊を転じた時期もあったが、叢雲は太平洋戦争開戦まで第12駆逐隊に所属した。 竣工2か月後の7月9日、第二水雷戦隊が豊後水道で演習中、午後10時頃に駆逐艦望月が叢雲の右舷に衝突した。叢雲乗員1名が死亡し、2名が負傷した。望月は駆逐艦三日月に、叢雲は白雲に曳航され、呉に帰投した。 1931年(昭和6年)12月1日、東雲が第20駆逐隊に編入し、第12駆逐隊は叢雲、薄雲、白雲となった。1934年(昭和9年)6月29日、演習中に駆逐艦の深雪と電が衝突した。叢雲と駆逐艦初雪が切断された深雪の艦首部分の曳航を試みたが濃霧で見失い、翌日も捜索したが発見できなかった。 1935年(昭和10年)4月、満州国皇帝の溥儀が戦艦比叡を御召艦として来日することになり、第12駆逐隊が比叡の供奉艦に指定された。第12駆逐隊は比叡を護衛して日本と中国大陸を往復した。9月26日、叢雲は三陸沖で演習中、台風により多数の艦が損傷する第四艦隊事件に遭遇し、甲板などが損傷した。10月10日から呉海軍工廠に入渠した。 1936年(昭和11年)12月1日、東雲が第12駆逐隊に戻って再び4隻体制になった。第12駆逐隊は1937年(昭和12年)12月1日に第二水雷戦隊、1938年(昭和13年)12月15日に第二航空戦隊、1940年(昭和15年)5月1日に第一艦隊・第三水雷戦隊に編入された。7月以降は第二遣支艦隊に編入され、日中戦争にともなう華中での沿岸作戦、北部仏印進駐作戦などに参加した。莆田市の興化湾・南日水道で海上封鎖の任務中、薄雲が日本軍機雷に触雷して大破し、叢雲は薄雲を台湾まで曳航した。薄雲は10月15日に第12駆逐隊から除かれ、12駆は3隻となった。興化湾に停泊中の叢雲には海賊が度々訪問し、中杉清治艦長や士官が海賊の根拠地を視察するなどの交流があったという。11月3日、叢雲は呉に戻った。 1941年(昭和16年)4月下旬から8月上旬まで、内海西部で訓練を実施。8月13日から第12駆逐隊3隻は佐世保海軍工廠で修理と整備を行った。9月12日、叢雲と東雲が次年度に第12駆逐隊として空母 蒼龍、飛龍と第二航空戦隊を編制する内示があったが、太平洋戦争の開戦で実現しなかった。9月26日、佐世保を出発して瀬戸内海に移動し、訓練に従事した。11月20日、第12駆逐隊の叢雲、東雲、白雲はマレー作戦に参加するため桂島沖を出発した。
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