高千穂空挺隊(第2挺進団)
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「レイテ戦記」の記事における「高千穂空挺隊(第2挺進団)」の解説
台湾の高砂族で編成した落下傘部隊。 挺進第3連隊 12月6日ブラウエン飛行場を攻撃。 連隊長白井恒春少佐は、昭和20年以後不明。 挺進第4連隊 12月8日以後オルモック攻防のためバレンシアへ。 連隊長斎田治作少佐は、昭和20年1月レイテを撤退。
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高千穂空挺隊
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「レイテ島の戦い#飛行場奪還作戦」も参照 レイテ島の戦いにおいて、第2挺進団(団司令部の秘匿名「高千穂部隊」)が、地上総攻撃と呼応してレイテ島のブラウエン飛行場群及びタクロバン飛行場、ドラッグ飛行場への空挺攻撃を実施した。「テ号作戦」と命名され、飛行場を一時的にでも制圧して、「多号」輸送船団を間接支援することが目的であった。1944年12月6日、挺進第3連隊主力と挺進第4連隊の一部が、ルソン島から発進した挺進飛行第1戦隊(秘匿名「霧島部隊」)と挺進飛行第2戦隊の一部などにより輸送されて、パラシュート降下及び強行着陸を行った。以上の第一次攻撃の参加兵力は空挺兵約460名、輸送担当が輸送機35機と重爆撃機4機、援護機の重爆撃機13機と戦闘機30機以上、軽爆撃機若干などだった。降下した高千穂部隊は、付近を防衛していたアメリカ軍第11空挺師団と空挺兵同士で交戦した。若干は飛行場に突入して航空機の破壊に成功したが、海上輸送も地上総攻撃も失敗したため、敵飛行場への空挺攻撃も打ち切りとなった。 出撃待機中だった高千穂空挺隊の残部444名は、レイテ島西岸オルモック湾に上陸したアメリカ軍の迎撃に振り向けられ、挺進第4連隊長に率いられてバレンシア飛行場などの日本側支配地域にパラシュート降下した。第一次降下で輸送機の多くが失われていたため、12月8日~14日に分散せざるを得なかった。多数の機関短銃などの優秀な装備を生かして、オルモック地区での防衛戦闘や、第35軍司令部の護衛などに活躍した。生存者の主力は第35軍司令部のレイテ脱出に付き添い、到着した先のセブ島の戦いやミンダナオ島の戦いに加わった。 なお、レイテ島に降下しなかった残存人員や地上要員は、主にルソン島で第10師団の指揮下に入り、こちらも高千穂部隊と称してバレテ峠の戦闘に参加した。一部はネグロス島に空輸されて第102師団歩兵第77旅団の指揮下に入り、ネグロス島で戦った。
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