第8次作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:14 UTC 版)
輸送船:赤城山丸・白馬丸・第5真盛丸・日洋丸 護衛艦艇:梅・桃・杉・駆潜艇第18号・38号・輸送艦第11号 第六次多号作戦と第七次多号作戦は部分的に成功し、方法如何によってはレイテへの輸送が可能であるとみなされた。また日本陸軍航空隊の空挺作戦も、連合軍の飛行場に損害を与えたと判断した。大本営はひきつづきレイテ作戦の続行を企図した。持久に転じても、数か月の時間を得ると判断した。 現地では、第8次多号作戦が実施された。第8次では、第68旅団(通称号「星」)の主力約4,000名を輸送する。12月5日10時30分、第43駆逐隊司令菅間良吉大佐(司令駆逐艦:梅)の指揮下、輸送船赤城山丸(4,714トン)、白馬丸(2,857トン)、日祥丸(6,482トン)、輸送艦11号は、艦艇5隻(駆逐艦〈梅・桃・杉・駆潜艇〈18号・38号〉)の護衛下でマニラを出港した。船団の速力は6ノットで、7日17時30分のオルモック到着を予定していた。6日には支援のためにテ号作戦が行われた。 「挺進連隊#高千穂空挺隊」も参照 だが、揚陸当日にアメリカ軍の大部隊がオルモック南部のアルベイラに上陸する。そのため第8次多号作戦部隊は、揚陸地をレイテ島北西岸のサンイシドロ(漁村)に変更した。7日10時0分以降、擱座・揚陸を始めた。揚陸中にB-24多数に空襲され、さらに連合軍戦闘爆撃機(P-40・P-47)32機、P-38ライトニング50機、海兵隊F4Uコルセア16機の波状攻撃をうける。人員は上陸したが軍需品の揚陸には失敗、物資は砲2門他の揚陸に留まった。梅と杉は損傷、輸送船4隻と輸送艦第11号は大破したため放棄され、残りの護衛艦艇5隻はマニラに帰投した。第68旅団長栗栖猛夫陸軍少将ふくめ幹部将校は、その後の地上戦で戦死した。第68旅団は合計約7,000名がレイテ島に上陸したとされるが、その戦闘状況はよくわからない。 12月5日正午すぎ、日本陸軍のSS艇3隻(6号・7号・9号)もマニラを出撃、第八次輸送部隊の後方についた。6日5時30分、SS艇6号は故障のためマンドリーケ島附近で速力低下、落伍した。7日朝、第43駆逐隊司令より「隊列を解き各船艇付近に擱座すべし」の命令が出され、SS艇9号はパロンポン(レイテ島北西岸)に向かった。SS艇7号(川井輝臣陸軍中尉)はサンイシドロ手前2マイルの陸岸に擱座し、独立歩兵第380大隊の159名・独立混成56師団通信隊37名・迫撃砲2門・機関砲2門・輜重車両4・弾薬食糧の揚陸に成功する。午後0時30分、レイテ島を離脱し、12月8日夕刻にマニラへ帰投した。6号艇と9号艇は未帰還となった。川井艇長は山下陸軍大将より直接感状を授与されたという。
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