航海と乗船者の死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 23:58 UTC 版)
「マルセイユの大ペスト」の記事における「航海と乗船者の死」の解説
1719年7月22日にマルセイユを出航したグラン・サン・タントワーヌ号の航海は順調で、スミュルナ、キプロスのラルナカ、レバノンのシドンと次々に寄港した。シドンでは、貴重な織物の保存性を改善するため、船内の湿気を吸収する絹織物と灰の袋を積載した。この灰はマルセイユの石鹸工場に設計の原料として販売された。(1978年、ジャール島沖で沈没したグラン・サン・タントワーヌ号からこの灰のサンプルが回収されている)。) ダマスカスでペストが大流行していることを知らなかった領事のプエラールは、レバノンで積載された荷物がペスト菌に汚染されている可能性があるにもかかわらず、健康証明書を発行した。次にレバノンのティルス(現在のスール)に寄港し、そこでの新しい生地を積載し終わったが、その生地もまた汚染されている可能性があった。こうして船は再び航海に戻ったが、嵐による損傷を修復するため、レバノンのトリポリ港に寄港しなければならなかった。トリポリのモネール副領事もまた健康証明書を発行した。1720年4月3日、14人の旅客を乗せてキプロスに向けて出港した。4月5日、あるトルコ人が死亡し、その遺体は海へ投げ込まれた。残る13人はキプロスで下船し、1720年4月18日マルセイユに向けて出港した。その途上で、乗組員の外科医を含む5人が立て続けに死亡した。 この事態を懸念し、シャトー船長はトゥーロン近郊のブルスク港に停泊することを決断した。この港はエンビエズ島に守られていたため古くから船乗りに安全な停泊地として好まれて、実際に帝政ローマ期にもタウロメントゥムが繁栄していた。この停泊の理由はかなり不可解であったが、一部の歴史家はシャトーが今後の進路について貨物所有者に助言を仰ぐためだったのではないかとする説を提唱している。 グラン・サン・タントワーヌ号はリヴォルノへと引き換えし、5月17日に到着した。イタリアでは上陸を禁止され、歩兵が監視する入り江へと停泊した。停泊した次の日に3人の死者が発生したことを考えると、この予防措置は妥当であった。遺体は医師によって検死を受けその死因は「悪疫性悪性熱」であると結論付けられたが、この時代の医師にとってその診断は必ずしもペストの診断を意味しなかったので混同しないように注意する必要がある。リヴォルノ当局はトリポリ副領事が発行した健康証明書の裏面に、熱病による死者が発生したため入港を拒否したことを記載した。 その後船はマルセイユに帰港した。トリポリを就航してから、その時点で9人の死者が出ていた。
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