第3補給任務:悲運なシー・ベンチャー号
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「クリストファー・ニューポート」の記事における「第3補給任務:悲運なシー・ベンチャー号」の解説
ニューポートはシー・ベンチャー号の船長かつ第3補給任務の「副提督」として1609年に4度目のアメリカ行きを行った。しかし、9隻の船隊は大規模で3日間も続く嵐に見舞われ、バラバラになった。任務の旗艦シー・ベンチャー号は新しかったがコーキング剤が無くなっていたのでざるのように水が漏れた。指揮を執っていたジョージ・サマーズ卿は船の沈没を避けるために慎重に暗礁に乗り上げた。シェイクスピアの劇『テンペスト』にヒントを与えたといわれる出来事で、乗客と乗組員は「なお悩ましいバームージーズ」(バミューダ諸島)に座礁していることが分かった。シー・ベンチャー号にはニューポートとサマーズの他にトマス・ゲイツ、ジョン・ロルフ、ウィリアム・ストラッチーおよびシルベスター・ジョーデインなどの著名な乗客がいた。 バミューダは1世紀前に発見されたものの、船乗り達が何かを施そうとすることを避けていたが、この出来事で恒久的な植民がはじまった。バミューダは西インド諸島や北アメリカの大西洋沿岸からヨーロッパへ帰る歴史的な経路上にあり、多くの水夫が失敗し、数多い船がシー・ベンチャー号より前の1世紀にバミューダの暗礁で難破していたので、この諸島には「悪魔の島」という別名もあった。最終的にシー・ベンチャー号の生存者(150名の入植者と船員および犬1匹)は、シー・ベンチャー号の部品と現地に豊富にあったバミューダスギから小さな船デリバランス号とペイシャンス号を作り直した。これら2隻で生存者の大半を載せてジェームズタウンに向かった(シー・ベンチャー号の帆走救命ボートでジェームズタウンに向かおうという無分別な航海の結果多くの者が死に、他にバミューダで死んだ者もおれば、生まれた者もいた)。2人の男、カーターとウォーターがバミューダに対するイギリスの領有権主張のために後に残された。 計画よりも10か月遅れでデリバランス号とペイシャンス号がジェームズタウンに到着すると、第3補給任務の物資大半を運んでいたシー・ベンチャー号の失敗に他の要素も加わって、1609年秋から彼らの到着した1610年5月まで「飢えの時(英語版)」を過ごした入植者の80%以上が死に絶えたことを知った。 ニューポートとシー・ベンチャー号の生存者はジェームズタウンの生き残り達と分け合うほどの物資を持っていなかった。双方の集団はイングランドに戻るしか選択肢が無いと感じた。数週間後、船に乗って川を下り始めジェームズタウンを棄てた。 しかし、彼らがマルベリー・アイランドに近付くと、イングランドから新しい補給任務を持って川を遡上する船に出会った。追加の入植者、1人の医者、食料、物資を持ってきたこの集団を指導していた新しい知事第3代デラウェア男爵トマス・ウエストは、残っていた入植者を思い止まらせ、植民地を棄てる計画を棄てさせた。 植民地はまだ食料が非常に不足していた。何か有ったとしても、デラウェアと共に到着した空き腹を抱えた者達が加わって事態は悪化した。サマーズはペイシャンス号でバミューダに戻り、食料を得ようとしていたが、「豚肉の過食」で死んだ。サマーズの甥でペイシャンス号の船長がジェームズタウンではなくライム・レジスに戻った。チャードという3人目の男がカーターとウォーターと共にバミューダに残った。シー・ベンチャー号の難破以来、バミューダ(この諸島が現在呼ばれている名前ではサマーズ諸島)を実質的に所有していたバージニア会社は1612年の第3勅許で公式の支配権を与えられ、バージニアの領域はこの諸島を含む大西洋に拡がった(1615年に支配権はバージニア会社の子会社サマーズ諸島会社に渡された)。
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