第3艦隊司令長官
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「ウィリアム・ハルゼー・ジュニア」の記事における「第3艦隊司令長官」の解説
1943年3月15日、第3艦隊司令長官に就任。空母戦力を再建した第3艦隊は、スプルーアンスが指揮するときは第5艦隊と名称が変更され、交代しながら指揮した。旗艦座乗時、ゲダンク・バー(艦内のアイスクリーム製造機)を利用する将兵の列に並んでいた(階級に関係無く行列を作る不文律があった)際、上官優先と言って割り込みをしようとした新人少尉二人を一喝して、元の場所に戻らせた。 スプルーアンスが第5艦隊を率いて中部太平洋のマーシャル諸島・ギルバート諸島の攻略に着手し、次の目標にマリアナ諸島攻略を目指す海軍に対し、マッカーサーは統合参謀本部に猛反対したが、一方でハルゼーに「わたしについてきてくれるなら英米連合の大艦隊の指揮権を与えようと思う。わたしはあのネルソン提督がなりたいと夢見ていた人物以上にきみをしてあげられるんだがね」といって説得した。しかし、キング・ニミッツ両提督は、中部太平洋攻略をハルゼーとスプルーアンスの交代で着手する構想を持っており、マッカーサーの意図を阻止した。6月、ヌーメアを去り、イギリスより大英帝国名誉騎士司令官勲章を授与される。 1943年8月、第3艦隊は、空母「サラトガ」を中心としてフレデリック・シャーマン少将の指揮下で第38任務部隊(TF38)を編成。1943年末、ブーゲンビル島の攻略に従事した。 第3艦隊旗艦として空母部隊に随伴可能な速力を持ち、航続距離に優れる艦載機を持つ敵機動部隊に間合いを詰めた際に敵の攻撃から司令部機能を喪失しない防御力を持つ艦艇として新鋭アイオワ級戦艦を要求、これが通りハルゼーの生誕地の名を冠する2番艦「ニュージャージー (BB-62)」が与えられた。駆逐艦3隻を伴い、1944年8月24日に真珠湾を出港、8月26日にサイパン島で艦隊指揮権を引き継ぐと、8月28日に硫黄島、9月9日からはパラオ諸島を爆撃、9月下旬にフィリピン沖に到着。沖縄、台湾を空襲し、10月12日に台湾沖航空戦が発生。 10月17日、レイテ沖海戦が発生。小沢治三郎中将が指揮する第三艦隊(日本)の陽動策にはまり、担当海域を逸脱したハルゼーの艦隊を呼び戻すために、ニミッツは「WHERE IS RPT WHERE IS TASK FORCE THIRTY FOUR RR THE WORLD WONDERS(第34任務部隊は何処にありや 何処にありや。全世界は知らんと欲す)」という電文を打った。悪態をついた「THE WORLD WONDERS」という一節は、アメリカ人が子供のころから暗誦しているテニスンの『騎兵旅団突撃の歌』の一節だったから、ハルゼーは文意に皮肉を込めたと感じて激怒した訳である。しかしこれは、暗号文を打つ際に意味のある語句だけだと敵に解読されやすいので、あえて無意味な語句をつけ加えて解読困難にする必要があって付け加えられた一節であり、本来なら暗号解読の際は省略されるべきものが、文章の意味として綺麗につながっていたので、そのままの形でハルゼーにまで伝わったのである。これは護衛空母部隊が栗田健男中将が指揮する第一遊撃部隊と対峙して救援を求めていたためであったが、ハルゼーは航空戦力を持たない栗田艦隊になら護衛空母部隊で対抗できると判断し、そのまま小澤艦隊を追撃し、4隻の日本の空母を撃沈した。また、栗田艦隊が撤退したことで海戦に勝利する。戦闘後、ハルゼーは非難する作戦部長アーネスト・キング大将に対し、「艦隊の主力である敵空母部隊の撃滅を第一とするのは当然である」と正当性を主張した。これは「Bull's Run(猛牛の突進)」と揶揄された。 その後もフィリピンに対し空襲を実施するが、10月末より日本が開始した航空特攻によって、空母3隻大破、航空機約90機、戦死者328人の他大損害が発生した。12月18日、コブラ台風に巻き込まれる。駆逐艦3隻沈没、7隻が中小破、航空機186機、死亡者約800人と、大損害が発生した。 1945年1月25日、フィリピンからウルシー環礁に戻り、休暇の為に本土に帰還。3月、ホワイトハウスに招待され、ルーズベルト大統領からゴールド・スター勲章を受ける。ルーズベルトの好意で勲章を胸に留める役はハルゼーの妻であるファン・ハルゼーが行った。 4月、パールハーバーに帰還。4月末、グアム島にいるニミッツを尋ねると、30日後に作戦途中でスプルーアンスと交代せよとの命令を受ける。5月18日、オーバーホール中の「ニュージャージー」に替わり姉妹艦ミズーリ (BB-63)」に将旗を掲げると、5月27日に指揮権を交代。この時、海軍の損害が戦死者数百人、負傷者数千人、損傷船舶20隻前後に達し、この損害が神風特攻によるものと知った。司令部もマーク・ミッチャー中将などは体重が45kgになるまで消耗しており、上陸部隊司令官サイモン・B・バックナー陸軍中将を励ますと、同時に日本本土各地を爆撃した。 6月5日、台風に遭遇。艦船36隻が損傷、航空機142機喪失他損害が発生した。これに対し、査問委員会が設置され、海軍長官ジェームズ・フォレスタルは一時ハルゼーの更迭・退役を考えたが、キング提督から「ハルゼー更迭は日本軍を喜ばせるだけ(ハルゼー更迭によって軍部内の海軍の勝利は色褪せて対日戦勝の功績が陸軍とマッカーサーに集中してしまうという真意があったとする意見もある)」と意見があり、無罪となった。 7月、サー・バーナード・ローリングス中将率いるイギリス海軍空母部隊29隻が援軍で到着したが、この目的がマレー沖海戦の汚名返上と日本降伏立役者に名乗りを上げるという漁夫の利を狙う政治的な思惑があった為、これを苦々しく思い、イギリス艦隊を艦船がほとんどいない大阪港に向かわせ、アメリカ艦隊を日本艦隊本拠地呉に向かわせた(呉軍港空襲)。広島・長崎へ原爆が投下された後、サンフランシスコのラジオニュースが日本は降伏したがっているという噂を報じたことを知り、エニウェトク島帰港を取り消して、日本へ引き返し、再度爆撃の準備に取り掛かったが、8月15日にニミッツから最高機密で最優先の電報で「空襲作戦を中止せよ」との命令を受領した。しかし、日本人を信用しておらず「うろつきまわるものはすべて調査し、撃墜せよ。ただし執念深くなく、いくらか友好的な方法で」という命令を出している。
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