日本に対する影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 00:51 UTC 版)
「グレート・ホワイト・フリート」の記事における「日本に対する影響」の解説
アメリカは当時、大西洋に艦隊が集まっており、太平洋には装甲巡洋艦が1隻配備されているだけであった。まだパナマ運河も建設中で太平洋側で有事があった場合の不安が強くあった。また日露戦争でロシア艦隊が消滅すると、太平洋上には日本海軍だけが突出する状態となった。アメリカの保守派や軍人たちはアメリカの植民地であったフィリピンの孤立を恐れていた。 日本側にはアメリカへの日本人移住制限の検討が行われたことに対する世論の反発や、ポーツマス条約の仲介を行ったルーズベルト大統領に対する批判や不満もあり、日米関係は緊張状態にあった。また日本政府は前年の1907年の帝国国防方針で初めてアメリカを第一の仮想敵国としていた。 艦隊が世界一周航海を始めると、アメリカやヨーロッパ諸国での世論は日本とアメリカの戦争が間近であると騒ぎ立てた。駐フランス大使の栗野慎一郎は「フランスの新聞は日米戦争不可避と書き、日本の外債は暴落した」と伝える。また駐スペイン公使の稲垣満次郎は「スペインの貴族や資本家から軍資金の提供の申し出があった」(スペインは米西戦争に敗北直後)と伝えてきていた。またアメリカの新聞も右派系を中心として連日に渡り、日本との戦争不可避と伝えた。 セオドア・ルーズベルトの伝記では、日本艦隊との交戦の可能性は1割ほど捨てきれなかったと回想したと伝えている。 一方、日本政府は6日後の3月19日に艦隊に日本への招待の申し入れを行った。1908年10月に入り入港が迫ると連日歓迎・友好の記事で新聞が賑わった。アメリカ艦隊はその姿から、幕末の黒船との対比として白船と呼ばれるようになった。10月18日、横浜港に入港すると最高潮に達した。10月18日の朝日新聞に大隈重信は「艦隊来航観」という文章を寄せている。 艦隊の乗組員の日本上陸の許可をするか否かが大きな問題となっていたが、艦隊を率いる将校は連日に渡る園遊会、晩餐会に招待された。当時、海軍軍令部長だった東郷平八郎大将は戦艦三笠の艦上で歓迎会を催した。また水兵3,000人の日帰り上陸が許可され、浅草・上野などの観光を楽しんだといわれている。こうした歓迎ムードのなか10月25日に艦隊は横浜を出航した。なお後に太平洋戦争で対日戦を指揮する艦隊司令長官たちもこの時に来日している。後の第3艦隊司令長官となるウィリアム・ハルゼーと@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}後の太平洋艦隊司令長官になるチェスター・ニミッツは[要検証 – ノート]戦艦カンザスと戦艦オハイオの少尉として東郷の胴上げに参加しており、また後の第5艦隊司令長官となるレイモンド・スプルーアンスは戦艦ミネソタの少尉候補生でガーデン・パーティーにて東郷を見ている。 日本における艦隊来航時の騒動について、後世において白船騒動・白船来航・白船事件などと呼ぶことがある。
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