駐フランス大使
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/19 08:10 UTC 版)
「ジェームズ・モンロー」の記事における「駐フランス大使」の解説
モンローは1794年に在フランスアメリカ合衆国全権公使に指名されると上院議員を辞任した。大使としてのモンローは、ルイ16世の処刑に反対したことで逮捕されたトマス・ペインの釈放を成功させた。 モンローはフランスの監獄に捉われているラファイエット夫人を含むアメリカ人全ての解放に努めた。夫人がラファイエットの捕らえられているチェコのオロモウツに旅立つ前には、ラファイエットの家族にアメリカのパスポートを発行した(彼らは名誉市民権を認められていた)。 モンローはフランス革命を強く支持し、ジョージ・ワシントンの厳格な中立政策はイギリスに有利にならないとフランスに保証しようとした。しかし、アメリカの政策はイギリス寄りであり、ロンドンでジェイ条約が署名されたときは動揺した。フランスとイギリスは交戦状態にあり、ジェイ条約はフランスをびっくりさせ、憤激させた。ワシントンはモンローが不手際であり、混乱を起こさせる操作を行い、および母国の利益を守れなかったとして在フランス公使を解任した。 モンローは大統領に与える外国の不快な影響について以前から心配していた。1785年にスペインがミシシッピ川のアメリカの航行権を30年間封鎖することを連合会議に認めさせようとしたスペインの外交官ドン・ディエゴ・デ・ガルドキの件で警告を受けていた。このときモンローは合衆国の南西部を失う、すなわち北東部の支配力を危険に曝すことになるスペインの過剰な影響力を見ていた。モンローは強い大統領制と抑制と均衡の仕組みを信念とした。1790年代には老年となったジョージ・ワシントンが強力なイギリス寄りであるハミルトンのような側近に大きく影響されているのに苛立った。モンローはフランス贔屓であり、1795年のジェイ条約に強く反対した。在フランス大使であるときに革命派を支持したことでワシントンがモンローを批判したことに屈辱を感じた。1798年から1800年にかけての擬似戦争が起こったとき、および1801年にトーマス・ジェファーソンを大統領に近付かせないようにした時には、外交と連邦党の要素を監視した。このときバージニア州知事だったモンローはジェファーソンに有利に決着するようにバージニアの民兵隊を使うことも考慮した。連邦党はモンローのことを良くてフランス担ぎ悪くて反逆者とみている者もいたが穏便に反応した。モンローはこうして被害妄想的政治に一石を投じた。
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