駐ペルー日本公館の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/02 00:42 UTC 版)
ペルーのリマには日本の公使館と領事館が置かれ、ペルー政府への対応は公使が行い、在留日本人や日本人移民の対応は、領事の仕事であった。当時の領事の権限は非常に強く、日本国籍保持者は彼らの一存で日本に強制送還できた。また当然のことなが官吏として日本政府の外交基本方針を遵守実行し、在留日本人を指導することが求められた。 1930年代の日本外務省の領事に対する要請の一つは、満州事変や日中戦争による緊張した国際情勢の中で日本の置かれた厳しい状況を在留日本人に深く理解させ、同意させ、団結をはかることにあった。しかし、在外公館が行ったこのような指導は、結果的に日本人移民がペルー社会への同化の拒絶に対しても正当性を与えることになった。 1939年の中頃、佐藤舜が領事としてリマに赴任してきた。佐藤領事は、赴任当時33歳と弱輩であり、相手に甘くみられないようにするためなのか、必要以上に威圧的な態度で臨んだといわれる。ペルーには北田正元が、佐藤の前年の1938年に公使として赴任していた。北田は穏健な態度で物事をすすめようとしたが、強引に物事を進めようとする佐藤とは馬が合わなかった。両者の関係は次第に対立するようになった。
※この「駐ペルー日本公館の状況」の解説は、「古屋事件」の解説の一部です。
「駐ペルー日本公館の状況」を含む「古屋事件」の記事については、「古屋事件」の概要を参照ください。
駐ペルー日本公館の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 13:54 UTC 版)
「リマ排日暴動事件」の記事における「駐ペルー日本公館の状況」の解説
ペルーのリマには日本の公使館と領事館が置かれ、ペルー政府への対応は公使が行い、在留日本人や日系移民の対応は、領事の仕事であった。当時の領事の権限は非常に強く、日本国籍保持者は彼らの一存で日本に強制送還できた。また官吏として日本政府の外交基本方針を遵守実行し、在留日本人を指導することが求められた。 1930年代の日本外務省の領事に対する要請の一つは、満州事変や日中戦争による緊張した国際情勢の中で日本の置かれた厳しい状況を在留日本人に深く理解させ、同意させ、団結をはかることにあった。しかし、在外公館が行ったこのような指導は、結果的に日系移民がペルー社会への同化の拒絶に対しても正当性を与えることになった。 1939年の中頃、佐藤舜が領事としてリマに赴任してきた。佐藤領事は、赴任当時33歳と弱輩であり、相手に甘くみられないようにするためなのか、必要以上に威圧的な態度で臨んだといわれる。ペルーには北田正元が、佐藤の前年の1938年に公使として赴任していた。北田は穏健な態度で物事をすすめようとしたが、強引に物事を進めようとする佐藤とは馬が合わなかった。両者は次第に対立するようになった。
※この「駐ペルー日本公館の状況」の解説は、「リマ排日暴動事件」の解説の一部です。
「駐ペルー日本公館の状況」を含む「リマ排日暴動事件」の記事については、「リマ排日暴動事件」の概要を参照ください。
- 駐ペルー日本公館の状況のページへのリンク