駐メキシコ公使
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「ロバート・P・レッチャー」の記事における「駐メキシコ公使」の解説
レッチャーは1848年アメリカ合衆国大統領選挙でホイッグ党の候補者ザカリー・テイラーの強力な支持者だった。テイラーが当選すると、レッチャーの友人であるジョン・クリッテンデンがレッチャーを郵政長官に推薦した。テイラーはこの提案を取り上げなかったが、その代わりにレッチャーをメキシコに対する特命使節かつ公使に指名した。レッチャーは1850年2月3日にメキシコシティに赴任した。 レッチャーの主要任務は、テワンテペク地峡の通行線建設権を購入していたアメリカ市民の権益を守る条約を交渉することだった。1850年3月にはメキシコ当局に条約の草稿を提出した。3か月近い交渉を行った後、1850年6月22日に修正された条約に調印した。その修正の中には、メキシコで生産されこの経路で輸送されたものには、アメリカ合衆国で生産されたものよりも20%少ない課税を行うこと、またこの経路を保護する際にメキシコ側が行使する権限を増加させることが含まれていた。レッチャーはアメリカ合衆国国務長官のジョン・M・クレイトンに手紙を書き、この条約はレッチャーが期待したものよりは劣るが、その条件は獲得できる最良のものになったと考えていると伝えた。 この条約に調印してから1か月後に、国務長官のクレイトンがダニエル・ウェブスターと交代した。ウェブスターは、通行線建設を期待するアメリカ人の一人が挙げていた心配に応えて、レッチャーに条約の修正を試みるよう求めた。レッチャーはその修正案をメキシコ外交官に持って行ったが、メキシコの役人は断固としてその受容を拒んだ。レッチャーは、内閣の同意を得て話しており、もし譲歩が無ければ、アメリカは武力でこの地域を奪うと仄めかした。メキシコ政府はそのような行動に対応できないことを心配して譲歩したが、それでも条約の修正は拒否していた。 ウェブスターは、その修正提案に対してメキシコが強く抵抗していることを知ると、レッチャーにメキシコ側が同意しやすい最も有利な条件を交渉するよう指示した。1851年1月25日、レッチャーはアメリカ側にやや有利になった第2の条約に調印した。しかし、この条約交渉に両国が時間を割いていた間に、メキシコの大衆感情はテワンテペク地峡に関してアメリカ合衆国と如何なる条約も締結に断固反対する方向に変わっていた。1851年5月22日、メキシコ政府は、アメリカの投資家と合意していたことについて、それを認めた暫定政権にはその資格が無かったことを根拠に、合意は無効と宣言した。レッチャーはメキシコ政府が無効にした権益を再度獲得するための新しい条約を交渉しようとしたが、1852年2月14日の報告書では、如何なる種類の合意にも到達し得ないであろうという観測が述べられていた。レッチャーは1852年8月に故郷に戻った。
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