メキシコ側
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 00:23 UTC 版)
死傷者の数の報告はおよそ250人からメキシコの公式の集計において1,400人まで、後のテキサスの集計で1,500人までと異なる。ほとんどの歴史家が、正確な数が未知であり、およそ300人 - 400人のメキシコ人が死亡し300人が負傷したと信じている。
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メキシコ側
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コス将軍の敗北でメキシコ軍はテハスでの拠点がなくなっていた。これに対しメキシコは翌年、大統領兼将軍であるサンタ・アナが反乱軍の鎮圧を決定した。メキシコの戦争相ホセ・マリア・トルネルとビチェンテ・フィリソラ将軍は1814年以来のテハス遠征で実績のある船での進軍を提案した。しかしサンタ・アナはその案では時間がかかり、その間に敵が米国からの援助を受けるとしてこれを拒否した。 サンタ・アナは1836年始めにサン・ルイス・ポトシで、概算で6,100人の兵士と20門の大砲を集め、テハスに向けコアウイラのサルティジョまで進んだ。軍勢は悪天候の中リオ・グランデを渡り、吹雪の山の小道を進んだ。サン・アントニオ・デ・ベハルは彼にとって中間的な目標の一つだった。彼の最終目標はテキサス政府を捕え、反乱州に対し中央の支配、或はメキシコの「中道」政権の立直しを図ることだった。彼はこれ以前1835年にサカテカス州の反乱を抑えていた。 サンタ・アナとその軍勢は2月23日にサン・アントニオ・デ・ベハルに到着した。歩兵大隊を温存するため、それは歩兵と騎兵の混成部隊だった。彼らはイギリス製のベーカー、時代遅れで射程は短いが威力のあるタワー・マスケット、Mark III、ブラウン・ベスマスケットなどを装備していた。メキシコ人の軍人の背丈の平均は 155 cm (5 ft 1 in) で、その多くが戦闘経験のない新米の徴集兵だった。メキシコの軍隊は個々の射撃の技量に劣ったが、しかし彼らはよく標的を打ち抜いた。初期の装備では、4門の7インチ (178mm) 曲射砲、7門の4ポンド (1.8 kg) 砲、4門の6ポンド (2.7 kg) 砲、4門の8ポンド (3.6 kg) 砲と2門の12ポンド (5 kg) 砲を備えていた。 ビチェンテ・フィリソラ(イタリア)、アントニオ・ガオナ(キューバ)など、一部のメキシコ軍指揮官は熟練した傭兵だった。またサンタ・アナもメキシコ独立戦争で経験があった。 サンタ・アナは自ら2000の軍勢を率いて進軍、サンアントニオ市を包囲した。
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